パナソニック ホールディングス執行役員の松岡陽子さんには、「明日が来なければいいのに」と現実から逃げたくなる日が何度もあった。4人の子育てと責任のある仕事に挟まれて追い込まれた時に、エグゼクティブコーチがかけてくれた言葉とは――。

テクノロジーを使って働く女性を助けたい

ロボットや人工知能(AI)の研究者であり、アメリカのシリコンバレーでは「Yoky」の愛称で広く知られる松岡陽子さん。グーグル副社長からパナソニックへ転身し、日本でも注目されたのは2019年のことだ。現在はシリコンバレーに立ち上げた子会社Yohana.LLCのCEOとして、忙しい家庭を支えるパーソナルメンバーシップサービスを展開する新たなビジネスをスタート。このさらなる挑戦には「テクノロジーを使って、働く女性たちを助けたい」という思いがある。自身も4人の子どもをもつ母として、仕事と子育てに奮闘する中で温めてきた夢でもあった。

チャットで専属アシスタントに頼み事をすると、エキスパートや専任リサーチャー、地域のネットワークを駆使して、用事の手配や課題の解決方法の提案をしてくれる。(写真提供=パナソニック)
チャットで専属アシスタントに頼み事をすると、エキスパートや専任リサーチャー、地域のネットワークを駆使して、用事の手配や課題の解決方法の提案をしてくれる。(写真提供=パナソニック)

「人生は一度しかないから、誰もが自分のやりたいことや目指すことをできるようサポートしたいのです。人によって目標はさまざまで、仕事のキャリアという人もいれば、家族を築きたいという人もいるでしょう。どちらも目指すなら、どちらか一つを我慢することなく両方実現できるように頑張ってほしい。そのためにはどうすればいいかというコツも提供しながら、私たちのサービスを通して何か手助けできればと考えたのです」

 

テニスの夢を断念、ロボット研究というキャリアの始まり

松岡さんはもともとテニス選手になりたいと夢見ていた。子どもの頃からテニスに明け暮れ、プロを目指して16歳で渡米。大学入学後もテニスしか頭に無かったが、ケガが多くてその夢を断念。将来の進路を思い悩み、自分にできることを考えていたとき、「ロボット」に興味を惹かれた。

パナソニックホールディングス執行役員 松岡陽子さん
写真提供=パナソニック
パナソニックホールディングス執行役員 松岡陽子さん

「最初はテニスしか知らなかったから、自分のためにテニスロボットを作りたいと思いました。うまくできれば、他の人も欲しいに決まっているからと(笑)」

UCバークレーで学んでいた松岡さんはロボット工学の教授を訪ね、「数学と物理が得意なテニス選手です。こんな私ですが、テニスの相手をしてくれるロボットを作れるでしょうか」と聞いてみた。笑われると思っていたが、教授は「もちろんさ。3階にいる大学院生に教えてもらいなさい!」と即答。それがキャリアの始まりだった。

テニスロボットは完成できなかった

ロボットの研究はどんどん面白くなっていく。さらにAIとコンピューターサイエンスという新たな専門分野をもつマサチューセッツ工科大学へ入り、修士号と博士号を取得した。そこで人間のように動けて学べるヒューマノイドロボットを作ったが、AIの技術が及ばず、うまく動かない。改良するにはリアルな知能を勉強しなければと思い、神経科学も学んだが、テニスロボットは完成できなかった。

松岡さんは自身の研究を別の世界で活用したいと考え、身体に障害を持つ人々の生活をテクノロジーで支援することを思い立つ。学習機能を持つ支援・リハビリ用ロボットをテーマに掲げて、ハーバード大学へ進んだ。

「私はパッションで動いてしまう性格なので、これが面白いとか、世界で必要だと思ったら夢中になってのめり込んでいく。研究はとても楽しく、すごく燃えていましたね」

未熟児で生まれた双子の育児と50人の生徒の対応

そんな日々が大きく変わったのは30代半ば。カーネギー・メロン大学の教授になった松岡さんは、今の夫と出会って結婚。まもなく双子を授かって、ワーキングマザーの日々が始まる。当時はアメリカでも産休・育休制度が進んでおらず、産後すぐ職場復帰する人が多かったという。

「妊娠したときに『休暇とっていい?』と聞いたら、初めてのケースだから自由に考えてみようという感じでした。けれど大学の私の研究室には50人くらい学生がいて、いろんなことが起こるので何カ月も休むことはできなかったんです。それでも子どもはたくさん欲しかったし、私は母親業にも燃えるタチなので(笑)、もう大変どころじゃなくて」

双子は未熟児で生まれ、ちゃんと育つだろうかと不安もつのる。母乳で育てたいと思っていたので、2時間おきに授乳すると一人ずつ30分ほどかかる。二人に飲ませると夫に預けて、30分ほどの間に学生からのメールを確認したり、ミーティングを入れたり、それが終わればまた授乳と、そんな毎日が続いた。

翌年にはワシントン大学へ移り、続いて長男を出産。さらにシリコンバレーへ引っ越して、2009年には「GoogleX(グーグルの先端研究所)」の創立メンバーに加わる。その後、次男を出産した。

周りの人の目は厳しかった

4人の子どもを育てながら、仕事でキャリアアップしていくのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。組織や社会の中で、出産や育児について理解されにくいと感じたこともあったのではないか。

「周りの人の目がかなり厳しかったと思います。何でこんなに早く帰るんだろうとか、また母乳を飲ませるために居なくなったとか、いろいろ見られていたので。自分は一生懸命働いて、ちゃんと結果を出していても、まだ足りないと思ってしまう。女性は男性以上に頑張らなきゃいけないというところがありました。産休がなければ自分で作ればいいと私なりに工夫したけれど、人の目は無くならないんです。自分がやりたいことをやるならば、他の人にちゃんと両立できることを見せなければと、最初の頃は頑張りすぎましたね。4人目のころには気にならなくなりましたが」

子どもの送り迎えのため1日3時間車を運転する

子育ても100%こなすことはできないから、妥協するところと、これだけは絶対に守るということを決めた。例えば、自宅はカリフォルニアの山沿いの地にあり、街の学校や習い事に通う子どもたちの送り迎えが欠かせない。夫と分担しても一日3時間以上は車を運転するが、それも大事な時間になっていた。

「車の中では子どもたちもすごく話してくれるんです。『今日どうだったの?』と聞くと、ちょうどアクティビティが終わったばかりだから、全部報告したいでしょう。うちの子たちは報告魔なので、皆で競って私にいろんなことを教えてくれます。子どもにとってはママが自分のことをわかってくれたと満足するし、親としては子どもの健康や生活をチェックできる。私にとっては幸せな時間なので、仕事のカレンダーの中でも送り迎えの時間は譲らないようにしています」

毎晩、家族揃って食事することも大切にしている。その間はデバイスを手放して仕事のことも考えない。短時間でも子どもとちゃんと過ごすことを心がけ、毎日チェックするリストも作っているそうだ。「『MEリスト』と呼んでいるんですけれど、子ども一人ひとりと10分は時間をとって話せたか、ということもリストの1つの項目で、実現できるようにスケジュールを工夫しています。うまくいかない日ももちろんありますが、毎晩、その日1日を振り返るようにしています」

この仕事は、子どもを置いてでもやる価値があるか

一方、仕事をするうえでも優先順位をつけることが必要。現在の会社には約100名のメンバーがいる。プロジェクトを率いる立場として、メンバーが問題を抱えて先へ進めないときは素早く察知して対応する。チーム同士の不協和音など、人間関係のトラブルを迅速に解決するのはリーダーの役目。時間もエネルギーも使って対応しているという。

仕事と子育てを両立するために、松岡さんが自分の中できちっと線を引いていることがある。

「仕事へ行くときに必ず考えるのは、これは子どもを置いてでもやる価値があるかということ。そう自分に問いかけながら、ちゃんと意義のある仕事をしているという自負を持っていたいと思います。だから、ミーティングの間は集中して、子育ての悩みも頭の中からターン・オフに。家ではなかなか仕事モードをオフにできなくて、『ママはまた聞いてない!』と子どもに怒られることもありますが(笑)、上手に分けられたらいいなと思っています」

「コーチの教え」を理解するのに10年かかった

明るく賢明な松岡さんにも昔は波があったという。仕事と子育ての板挟みになって落ち込んでしまったことも。例えば、子どもが学校で問題を起こしてしまい、「明日は絶対にママが来てくれないと困る」と泣いている。親としては傷ついた子が心配でならず、先延ばしはできない。一方、会社では重要なミーティングが入っていて、自分が説明しなければプロジェクトが頓挫してしまうかもしれない。どうすればいいのだろう……と、葛藤することは幾度もあった。

「エモーショナルな問題が同時に3、4個並ぶと大変です。どちらも大事で本来ならどちらかだけをチョイスすべきではない選択肢が並ぶから。若い頃はベッドの布団の下で『もう絶対に無理!』と。明日が来るのが怖くて、ずっと隠れていたこともありましたね。そうしてぎりぎりまで追い込まれたとき、女性のエグゼクティブコーチに教えられたことがあったのです。私は『子どものことが大変。会社でもこんなことが起こっていてどうしたらいいの』と訴えたのに、その方は『まず、あなたの心と身体の健康を取り戻しましょうね』と。最初は何を言っているのかわからなかったけれど、実はその大切さに気づくまでに10年かかったのでは……」と松岡さんは苦笑する。

いいママでいられるのは仕事があるから

当時は睡眠を削ればもうちょっと仕事もできるだろうと思っていたが、どんどん効率が悪くなっていくことに気づかなかった。コーチに「今晩は8時間寝なさいね」と言われたときは時間の無駄と思ったけれど、まずは睡眠をとって身体を休めることから始める。もともとスポーツが好きで、運動すると頭もすっきりすることを思い出し、早朝にテニスやジョギングで汗を流すようにした。そうしてプライベートの時間も大切にすることで心の健康も少しずつ取り戻し、前向きに日々を過ごすコツを学んだという。

「私にとって仕事と家庭はどちらも大事なもの。仕事をしているから、いいママでいられると思うのです。私はよく『仕事は子どもからのバケーション。子どもたちは仕事からのバケーションです』と家族に話しています。一日にどちらも行き来して、両方をやるからこそ、それぞれ効率がいいし、イライラすることも減っています。だから、いいママでいられると思うし、子どもたちも母親が家の外で活躍している姿を見られるでしょう」

松岡さんは、過去の経験や先入観などに捉われず、「今、この瞬間」に意識を向けるマインドフルネスを実践している。過去を振り返って失敗を悔んだりせず、今を大切にして生きる。反対に、将来こうなっていたいからと逆算して何かをすることもしない。仕事も子育てもちゃんとエンジョイしてやっていれば、将来やりたいことにつながっていくのだからと。実際、松岡さんが現在とり組む働く家族(女性)を助けるサービスは、そんな毎日の中から生まれたアイデアが詰まっている。後編では松岡さんの次なるチャレンジを追う。