見学店舗でワクワクと胸が躍った
ニトリといえば〈お、ねだん以上。〉というキャッチフレーズが思い浮かぶ。安くて手に入りやすく、品質の高い商品を広く社会に提供することが、ニトリのビジネスモデルの根底にある。
会社の歩みは1967年、北海道で創業した「似鳥家具店」からスタート。創業者の似鳥昭雄氏は、運命的な転換点はアメリカでの体験にあったと述べている。似鳥氏は1972年にアメリカへ研修旅行に出かけ、シアーズやJ.C.ぺニーなど有名小売店を訪ねた。そこでまず驚いたのは、ソファやベッド、ダイニングテーブルの隣にカーテンやカーペット、寝装品などのインテリア用品が並び、色やスタイルをトータル・コーディネートして販売していたこと。しかも価格は日本の約3分の1だった。その販売手法が住まいの豊かさを支えていることに感動し、日本で同様のビジネスをやりたいと考えたという。
それから半世紀、今では全体で国内外に785店舗(12月17日現在)を展開するニトリグループ。入社以来20年、その成長を実感しながら働いてきたという千野さんはこう振り返る。
「単純にモノを売るのではなく、ニトリの商品を買っていただくことで生活が楽しくなった、家がすてきになってうれしいとか、日常の喜びを少しずつ増やしていってもらえたらと。そのお手伝いをすることが私たちの仕事だと思ってきました」
千野さんが「ニトリ」と出合ったのは就活中のこと。大阪の大学へ通っていたが地元にはまだ店舗がなく、合同説明会で初めて知った。その光景はなんとも不思議だったらしい。
「ブースに、えんじ色の洗面器とタオルを振っている人がいたんです(笑)。リクルーターの方が説明されたのは、タオルは繊維メーカー、洗面器は樹脂メーカーから仕入れるので色を合わせるのは難しいけれど、ニトリはアメリカの流通業にならってチェーンストアでコントロールし、色をコーディネートできるようにしているのだと。正直、商品はうーんという感じだったのですが(笑)、なるほど面白いなと興味を持ったのがきっかけで……」
初めて見学したのは東京・南町田の大型店舗。カラーごとに陳列された食器やインテリア小物、柄や素材によってコーディネートされたリビングやベッドルームを見て、胸がワクワクと躍った。自分もその楽しさを多くの人に伝えたいと、2001年にニトリへ入社。そこからは、さまざまな部署を転々と異動していくことになる。
引け目を感じたときに思い出す店長の一言
最初の配属先は、富山県内でオープンした新店舗だった。当時は女性社員が少なく、圧倒的に男性が多かった。商品の搬入や陳列など肉体労働も懸命にこなしたが、当時は女性だからと任されない業務もあった。引け目を感じていたら、店長に諭されたという。
「どんな仕事であっても、男性、女性に関わらず、この人にはこれが向いているという適性がある。あなたはパートさんとコミュニケーションをとること、お客さまの不満を聞いて解決していくことが他の人よりうまくできると思う。だから自分がやるべきことをちゃんとやっていけばいいと言われたのです」
千野さんはさらに人事部など異動を重ね、入社7年目に品質業務改革室へ。その半年後には、同部署のグループマネジャーになった。そこは自社商品の品質改革に取り組むため新設された部署で、部下4人は全員店長を務めてきた男性の先輩ばかり。店長経験もマネジメント経験もない自分にできることがあるのか……不安がつのる中であの店長の言葉を思い返した。
「私がやるべきことは何なのかを必死で考えました。メンバーの中にはどちらかというと研究職で突き詰めて検証するのは得意でも、他部署との交渉があまり上手ではない方もいる。ならば私は皆さんが苦手なところをやっていこうと。できるだけ先輩方が支障なく仕事できるように努めていました。マネジャーというよりもチームリーダーのような感じでしたね」
社内を騒然とさせた“土鍋事件”
品質業務改革室に異動してほどなく、マネジャーになる前に、千野さんは「土鍋事件」の対応も担当していた。国内のメーカーから仕入れた土鍋から有害物質が検出され、全部回収する事態になった事件。コールセンターには電話が殺到し、部のメンバーも対応に追われた。一方、他の商品も本当に大丈夫なのかと問い合わせが相次ぎ、安全性を確認する検査を徹底する。この事件を機に仕事に対する姿勢も大きく変わったという。
「お客さまはニトリを信頼して買い物をしてくださっている。どこから仕入れているかに関わらず、販売している企業としての責任をいっそう意識するようになりました」
ニトリでは90年代半ばから海外自社工場を稼動させ、世界各国から調達した原材料を使用して製品化している。さらに国内メーカーで製造するものも品質管理を徹底し、低価格、高機能な商品提供に取り組んできた。
予測を大幅に誤り、大量在庫を抱えることに…
千野さんはそうした現場を経て、2013年には商品部へ。それはうれしい異動だったのではと聞くと、本人の返事は意外なものだった。
「実は希望ではなくて、むしろ避けていたというか。商品部というのはモノが好きでクリエイティブな才能のある人が行くと思っていたので、あまりセンスもない自分には向いていないなと。私はモノより人と向き合う仕事の方が好きなので、全然興味がなかったんですね」と苦笑する千野さん。
商品部ではアシスタントバイヤーを務め、食器の担当に。ニトリでは自社のバイヤーが海外の展示会で新製品や素材のチェックをするが、大きなミスをしてしまったと明かす。
「夏用にタイのガラスを仕入れたんですね。かわいいなという気持ちだけでちょっと薄いピンクの食器のシリーズを選んだのですが、まずこれが売れなくて……」
夏用の食器売場には透明なガラス製や涼し気なブルーの食器が並び、ピンクの食器はやはり違和感があった。季節商品は半年で売り切らなければいけないが、販売数量の予測も大幅に誤り、数年分の大量在庫を抱えてしまった。いつまでも売れ残っている商品を見る度、胸が痛んだという。
「マネジャーに言われたのは、バイヤーとしてのこだわりもあると思うけれど、ニトリに来るお客さまにとって必要な商品とは何かをちゃんと考えなければいけないと。独りよがりな商品選定をしてしまったことをとても反省しました」
ニトリでは売り場の拡大に応じ、新商品の選定に追われていた時期でもあった。その渦中で千野さんは身体に異変を感じた。丈夫さが取り柄と思っていたのに、生まれて初めて蕁麻疹を発症。病院へ行っても、「原因はわかりません。何かストレスがありますか?」などと聞かれ、ひどくショックを受けた。
「私のモットーは、どこの部署へ行っても仕事は楽しんでやろうという気持ち。けれどあの頃はどうしても楽しく思えなくて、とにかく売り場を埋めなければと焦りがありました。自分がやっていることに意義を見出せないでいたこともつらかったのでしょう」
もう仕事を続けることは難しいかもしれない。思い詰めた千野さんは上司に相談し、異動が決まる。次の配属先は人材教育に携わる部署で、もともと入社した頃から希望していた仕事だった。
苦労や失敗も若手の育成に活きた
千野さんは教育研修を担当し、アメリカセミナーの運営と講師も務めることになった。ニトリグループの代表的な研修制度であるアメリカセミナーは、入社2年目で参加する「入門コース」から選抜式の「上級コース」まで様々なコースが存在し、カリフォルニアの流通業を視察へ行く。ニトリのビジネスモデルはアメリカのチェーンストアにあり、千野さんも新人時代に現地を視察。買い物の楽しさを体感したことが大きな学びとなっていた。
「セミナーの講師は、店舗の運営面のオペレーションだけでなく、どうしてアメリカの流通業はこんなに安くコーディネートできる商品を販売しているのかという仕組みも説明しなければいけません。そのときに商品部で経験してきたことも活かされました。どんな苦労や失敗をしたか、話せることがたくさんあります。過去の経験が全部つながって、ようやくアウトプットできたんですね」
15回の異動を経て。今もニトリで働く理由
そして今、千野さんはニトリファシリティという子会社へ出向し、事業本部長を務めている。ニトリグループの保険代理店業務から、産業廃棄物や清掃の管理まで多岐にわたり、いわばグループ全体を裏方で支える事業を行っている。部下が担う仕事はそれぞれ専門性が高く、チーム全体の一体感はどうしても希薄になりがちだ。千野さんはここでも過去の経験を活かせたらと意気込んでいる。
「おかげで社内のネットワークもできたので、ニトリファシリティの存在をもっと認知してもらえるよう取り組んでいます。産廃管理や保険業務は会社にとっても重要な仕事。ニトリグループの安心安全の一翼を担っていることに、従業員やパートの人たちにも誇りをもって働いてもらえるよう働きかけていきたいと思っています」
ニトリで働き続けて20年が過ぎる。これまで異動したのは15回ほど、店舗、人事、品質改革、商品部、人材教育、CSRや環境の取り組み、社長室などさまざまな業務を経験してきた。同期や後輩が店長、エリアマネジャーとキャリアを積んでいく横で、一担当として仕事をすることに悩んだこともあったが、今では他の誰よりも幅広く経験をつめたことこそが強みになっているという。
「私は器用貧乏というか、決してスぺシャリストではないんですよね。とびぬけて何か強みがあるわけでもないですし。昔店長が言ってくれた『自分がやるべきことをちゃんとやっていけばいい』を思い返しては、自分にやれることがあれば何でもやろうと思ってきただけで……」とほほえむ千野さん。
ずっと忘れられないのは、初めてニトリの店舗を見学したときに胸がワクワクと躍ったこと。その気持ちをお客さまに伝えたいという思いが、自分の原点になっている。