※本稿は、アルボムッレ・スマナサーラ『心は病気:悩みを突き抜けて幸福を育てる法』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
仏教には心のケアというテーマはない
最初に申し上げておきたいことがあります。それは「心のケア」は、そもそも仏教の課題ではない、ということです。
何しろ世間一般にいわれる「心の悩み」というのはほとんどが現代病で、お釈迦さまの時代にはなかったのですから、仕方がないのです。
昔の人々にはそれほど精神的な病気がなかったのです。なぜかというと、自然の中で生きていたことで「ものを認める」ということが、生活の中でできていたからです。「もの」というのは、生きている間に出会うさまざまなできごとのことですが、現代に生きる我々はそれを認めません。自分に都合の悪いことは何一つ認めたくないのです。
「自分の手で全部コントロールできる」高慢さが招く心の病
台風が来ても被害が出ることは認めたくなくて、どうにかして防ごうとします。地震が起きても人が死ぬのは認めたくなくて、どうにかしようとします。病気が見つかると、それもまた認めたくなくて、治そうとしますね。
昔の人々にはそういう発想はありませんでした。台風が来たらぜんぶ終わりになってしまうとか、乾季にはぜんぶ作物は消えてしまうとか、そういうことをそのまま認めて生活していたのです。
隣の国が戦争をしかけてきたらみんな死んでしまいますが、「悲しいけどそれもしょうがない」という心構えでした。自分にどうしようもない現象はそのまま受け入れるということが、昔の人々には当たり前にできていました。
でも現代人には、それができないのです。しかも、ただ受け入れられないだけでなく、「自分の手でぜんぶコントロールできる」とどこかで思っています。
こちらで何かを抑えればべつのところで出てくる「モグラたたき」のようなもので、完璧にコントロールすることなど何一つとしてできないのですが、そこには目が及びません。
ですから、現代人のそういう高慢さというか、「俺たちはなんでも知っている。なんでもできる」というくだらない考え方さえ捨てれば、精神的な問題も存在しないのです。
というわけで、心のケアをするというテーマは本来、仏教にある話ではないのです。
仏教は心の科学
けれど仏教には心をケアする教えが、たくさん含まれています。何しろ仏教の経典の95パーセントくらいは、身体のことではなく心の問題、心のことについて話しているのです。
ですから、その教えの中には我々の心の悩みをなくす方法やヒントも、もちろんあるわけです。
仏教は「心の科学(science of the mind)」です。「心理学(psychology)」ではなくて、私はあえて「science of the mind」という言葉を使います。
私がつくった言葉で、英語の辞書にはありません。仏教では、精神的なはたらきそのものを、物理学や科学と同じように徹底的に分析して、互いの関連性を理解する。そして自分の思うままにしようとするのです。
科学もそうですね。
新幹線や飛行機、宇宙船、いろいろなコンピュータなど、この世の中にすごいものはいろいろありますが、これらはすべて科学によってできたものです。
科学では、自然法則を理解して、いくつかの法則同士の関連性を調べて、互いにどのようにはたらくかということをきちんと理解して、それを人間の幸福のためにうまく使えるように工夫するのです。
科学には、このような「実践的な側面(practical aspect)」が確実にあるのです。
そういう視点で経典を読むと、お釈迦さまが心を科学していることがよくわかります。簡単にはまとめられないくらい、膨大な心の法則についてお話しなさったのです。
ですから、わざわざカウンセリングとか、心理療法、心療、そういうテーマで細かく探さなくても、お釈迦さまの教えというものは、どこを見ても心が安らかになったり、心が治ったり、心が清らかになったりするのです。
仏教と心理学は目的が違う
仏教は心の科学ですから、実践的な側面があります。つまり「目的」があって、その実現に役立つのです。
では、その目的とはなんでしょうか? 言うまでもなくそれは「人間の幸福」です。そして仏教は、人間の幸福を実現するために「心の次元を破って超越することを目指す教え」なのです。
初めて本来の仏教に触れる皆さんには、目が点になるような話でしょう? けれど仏教が目指す究極の幸福は、心の次元を超越したところにあるのです。そのための方法をお釈迦さまは教えたのです。
教育の世界や、精神科のお医者さん、心理学関係の皆さんが考える「心が健康な状態」とは、つまり「一般的な社会で問題なく生きていられる状態」のことですね。
でも、仏教ではそうは考えません。たとえば、ヨーロッパの素晴らしいカウンセリングの専門家と私がいるとします。専門家なら、人がうまく社会で生きていられるようになるくらいのことは指導するはずです。
一方、私が指導するならば、社会をいかに脱出できるか、「心の次元をどうやって乗り越えるか」ということを教えたいのです。
二つの差は歴然としています。
心理学で目指すのは「ノーマル」
一般的には、たいていの人間について、「べつに問題のないノーマルな人間だ」と考えますね。ちゃんと勉強できて、ちゃんと仕事があって、ちゃんと結婚して家族がいてうまく生きているから、それで問題はない、という理屈です。
確かにそれくらいのレベルでいえば、そのとおりです。そして、その中にたまに「ノーマルでない人」が現れる、という認識ですね。
「ノーマルでない」とされる例をいくつか出しましょう。
小さいときであれば、学校に行きたくない、行ってもなかなかみんなと仲良くできない、何を勉強してもすぐ忘れてしまう、まるっきり勉強に興味がない。そんなところですね。就職をするころになると、面接がいつもうまくいかないとか、人に会うとしゃべれなくなってしまうとか。いざ会社に入ってもみんなとうまくいかない、お金が入ったらすぐにぜんぶ使ってしまう、借金するクセがついてしまった。そんな人もいます。
変なことに手を出して、それがないと落ち着かない人もいますね。酒やタバコがやめられなくて、麻薬の依存症みたいになってしまったりとか。賭け事なんかも同じです。ひどい人は借金してでも毎日パチンコをやってしまいますね。家庭を持っている人であれば、家族の人間関係がうまくいかないという問題もあります。
一般的な世の中では、そういうものを精神的な問題として扱っているのです。「普通」の子供だったら学校に行って、仲良く遊んで楽しく勉強する。それが普通なのだから、できない子には何か心の問題がある、というわけです。
この論理で見れば、問題を抱えている人々は一般社会のレベル以下ですから、精神科の世界から人々を助けて、普通の状態にまで上がれるようにしてあげるのです。わかりやすいといえばわかりやすいですね。
まず病気を治してから
精神的に弱い人の問題だけを、わざわざ取り上げて扱うのは仏教の仕事ではありません。仏教は科学的な宗教ですから、もしも精神的な問題を抱えているなら、まずはその分野のお医者さんに看てもらって病気を治してから来るべきなのです。
自分で「私は元気だ」と感じられるようになってから、こちらに来てもらえば、仏教的に見た根本的な病気を治してあげることができます。そしてさらに、心をもっと上のレベルに持っていけるでしょう。
たとえば人が足の骨を折って歩けなくなり、車椅子で移動しているとします。そうすると、お釈迦さまはまず「お医者さんのところに行って骨を治して、歩けるようになってください」と言います。
その人は、骨を治してリハビリをして、普通に歩けるようになったところで、またお釈迦さまのところに来ます。
ところが、その人が「今はもう元気で歩けますよ」と言ったら、お釈迦さまはこう言うのです。
「いいえ、あなたは歩けていません。ものすごくのろい。どうせ歩くなら、人間ではないかのように速く歩けなくてはいけないのです」
そして今度は、ただ歩くのではなく、猛烈な速さで歩く方法をコーチしてあげるのです。心理学と仏教の差とは、こういうことなのです。だいたいこんなイメージで理解していただければいいと思います。