中学生のころから変わらぬ夢
ソフトバンクでは、キャッシュレス決済の「PayPay」、タクシー配車プラットフォームの「DiDi」、シェアオフィスの「WeWork」など、投資先企業と連携することで新規事業を展開している。AIテクノロジーやビッグデータの技術を駆使したビジネスモデルの創出だ。その推進を担うチームで活躍する小齊平さんには、ずっと変わらぬ夢があった。
「新しい価値を生み出すことで、社会に役立つ変化を起こしたいのです」
中学生の頃は新聞記者になりたかったと話す小齊平さん。記事を通して社会問題を解決したいと考えていたという。大学時代は政治に関心をもち、議員の事務所で働いたこともあった。将来は新聞記者、政治家。それとも……と思い悩んでいたとき、ゼミの先生に勧められたのがコンサルタントの仕事だった。民間の現場でこそ生み出せる新たな価値があるんじゃないか――と。
小齊平さんは新卒で船井総合研究所へ入社。3年勤めた後、外資系のデロイト トーマツコンサルティングへ。そこでの6年間はまさに山あり谷ありの日々だった。
猛烈に忙しい日々の中、訪れた失明の危機
「事業再生やM&A、経営統合などを数多く経験し、毎日とても充実していました。猛烈に忙しいことも平気だったのですが、入社3年目の頃から徐々に目が見えにくくなったのです。視野が欠けていくのがわかり、自転車に乗ると転んでしまうように。さすがにまずいと思って病院へ行っても、原因がなかなかわからない。いずれ失明するかもしれないと告げられたときは衝撃を受けました」。
病院を転々として、最後にたどりついたのは視神経眼科の専門医だった。そこで初めて目に帯状疱疹ができる稀有な症例であると診断を受け、治療を開始。回復の兆しが見え数カ月間の休職を経て復帰したが、その先のキャリアには迷いがあった。
「仕事は楽しいけれど、私は一生コンサルをやっていきたいのか、と。クライアントと一体になって合併できた、買収に成功したなどと喜んでいるつもりでも、やはりどこか自分事ではないのです。わたしも事業の当事者として、自分の会社に愛着を感じながら、新たな価値を生み出す仕事がしたいと思うようになりました」
ユニクロに転職一年で降格
小齊平さんはファーストリテイリングへの転職を決めた。当時、「ユニクロ」はヒートテックの開発で注目されており、衣服の概念を変えていく企業姿勢に惹かれたのだ。
2013年に入社すると、監査部へ。最初に担当したのが、ユニクロ中国法人を香港市場に上場するプロジェクトの内部監査だった。中国国内のユニクロ150店舗を450店舗へと拡大する転換期にあり、社内は相次ぐ新店舗開業で多忙を極めていた。人材の入れ替わりが激しく、業務改善も急務となる。財務諸表やオペレーションの状況から改善点を見つけるため、膨大なデータ分析に追われた。
その激務のなか、プライベートでも試練に直面した。父親が膵臓がんで倒れ、半年はもたないと余命宣告されたのだ。自宅で介護することを決断し、小齊平さんは有給を前借りする形で休職。それから2カ月後、父の最期を看取った。
「あまりに大変な年でした。すぐ仕事に戻ったものの、数週間後に『降格』を申し渡されて。社内のポジションはグレード制で、頻繁に見直しがあります。入社初年度の私は上司の期待値に応えられず、2グレードの降格に……心が揺れ動きました」
転職も頭をよぎるが、そのタイミングで辞めるのは踏ん切りがつかない。今の仕事をやり切らなければ、前へ進めない気がした。それまで監査部の仕事に正直苦手意識があったという小齊平さん。わからないことがあれば、嫌がられてもかまわず監査法人に確認を繰り返し、苦手なIT監査にも率先して取り組んだ。
その成果が評価され、2年後には再昇格を果たす。AI技術の可能性にも着目した小齊平さんは、次なるチャレンジを目指した。
ソフトバンクへ転職
新しい価値を生み出したい――。その変わらない一心で選んだのがソフトバンクだ。RPAを事業化する新部署が立ち上がるという話を聞き、迷わず飛び込んだという。
RPA(Robotics Process Automation)とは、業務の処理手順を登録することで膨大な作業が自動化される手法。小齊平さんはRPA事業者への出資や社内での販売事業の立ち上げ、海外展開を担当する。翌年には念願だった新規事業開発を担う組織へ異動。ソフトバンク・ビジョン・ファンドの出資先企業に対して、日本市場における進出支援に携わることになった。
「ソフトバンクは出資先企業にあまり口出しをしないんです。私はもともとコンサルで再建側にいたので、シビアに交渉を進めていくタイプ。だから感覚的なギャップがあって、そんなに緩くていいのか!? と上司とぶつかったくらい(笑)。でも、実際にはそれでうまくいったのです。私は出資契約後1、2年で結果を出さなければと思っていたけれど、ソフトバンクが目指すゴールは期間も定義も異なります。投資回収の時間軸が圧倒的に長いのです。相手の起業家精神を尊重し、彼らの事業計画を長い目で見守っていく。懐の深い会社なのだとしみじみ感じました」
WeWorkをいかに再建させるか
新規事業の運営では、チームの結束も欠かせない。その大切さを痛感する苦い経験があった。それは小齊平さんがソフトバンク・ビジョン・ファンドが出資する「WeWork」の日本事業の担当に着任したときのことだ。
シェアオフィス事業を展開する「WeWork」はアメリカの企業で、ソフトバンクなどと2017年にジョイントベンチャーを設立し、日本事業を開始。2019年にはアメリカ本国で上場申請したが、9月に取り下げになってしまい一気に資金繰りが悪化した。小齊平さんが「WeWork」の日本事業の担当になったのは、この事態が発覚する2週間前のこと。まさに寝耳に水の状況に直面し、いかに彼らを再建するかという激論の渦中に巻き込まれていく。
当時、小齊平さんは4名の部下を抱え、ひたすら数値分析に追われた。日本国内の約30拠点のオフィスがどれだけ稼働しているのか、顧客の利用状況を徹底的にリサーチし、レポートにまとめていく。連日その作業が続いた。
「部下からレポートがあがってきたとき、私は『ここは分析軸が違っているよね』などと間違っているところだけをフィードバックしていました。本来は部下のモチベーションや成長を見据えて、彼らが考えたことをちゃんと汲み取りながら、フィードバックしなければいけなかったのですが」
しかし孫会長との会議が突発的に入ることもあり、緊張感がある。また報告したレポートをもとに戦略の検討がどんどん進んでいくので、絶対に間違った数字は出せないという怖れもあった。
「一刻一秒でも速く正確なレポートを出したいという焦りから、何でこういうことをしているのか、社内でどんな議論が行われているのかという説明もおろそかになっていました。忙しくても、私は社内での議論をもとに新たなものが生み出されていくのを感じられるから面白さややりがいもあったけれど、それについて十分にシェアされず、アウトプットの速さと正確さだけを求められ続ける部下は本当に辛かっただろうと思います」
部下に指示をしても、だんだんリアクションが乏しくなっていった。ただ機械的に動く様子が気になり、「ちゃんと考えてやってくれている?」と聞くと、「これは小齊平さんの趣味ですよね」と冷ややかな返事。「何でそこまでやらなきゃいけないんですか」と反論を受けるようにもなっていた。
事態の収束後、突如告げられたチームの解散
プロジェクトが一段落した後、部下たちから他の上司に「これ以上、このプロジェクトを続けていくのは厳しい」と申し入れがあり、チームの解散を告げられた。そのショックは大きく、しばらく自省の日々を過ごしたという小齊平さん。他のチームの活動を見ていて、気づかされたことがあった。
「チームで働いているからこそ、より大きな成果を出せるのだと。メンバーの個性や強みが活かされることで、足し算ではなく掛け算の結果が出るのだと気づきました。私は目の前の作業に追われるあまり部下を手足のように使ってしまい、彼らの良さや強みをいっさい反映できなかった。チームだからこそ、掛け算の達成感を得られるような形を築かなければならなかったのだと痛感したのです」
「私は前科一犯だから怖かったら言ってください」
その後新たに率いることになったのが、今のチームだという。前回の失敗を踏まえて、できるだけ一人ひとりと話す時間をつくり、自分自身の素顔も隠さないことを心がけた。
「私はどうもパーフェクトな人間とか、強いと見られがちなのですが、実は飛行機に乗り遅れたり、スーツケースを空港に忘れたり、そそっかしい失敗もたくさんあります。前のチームでは部下に辛い思いをさせたから、今のメンバーには『私は前科一犯なので、怖かったら言ってくださいね』と最初に伝えました。『今の言い方、ちょっと怖いですよ』と言われる度、『ごめんなさい』とあやまっているんです」
昨年11月からはそのメンバーと「WeWork Japan」へ出向。コロナ禍でオフィスの在り方が見直されるなか、シェアオフィス事業にはさらなる可能性を感じている。新しい価値を生み出す挑戦はこれからも続くことだろう。
そんな小齊平さんにとって、肩の力を抜ける余暇の時間はあるのだろうか。最後に聞いてみると、思いがけない答が返ってきた。
「パウンドケーキを焼くのが好きなんです。ちょっと実験めいているのですが、小麦粉をそば粉に変えてみたり、砂糖をはちみつに変えてみたりとか。とにかくバターと卵の香りが大好きなので……」
なんとも幸せそうな笑顔を見ていると、ふんわり甘い香りが漂ってくるようだ。真心こめて焼かれるパウンドケーキ、さぞや美味しいに違いない。