キャリアのはじまりはトラックの運転
広告宣伝の世界に惹かれたのは高校時代。高2から一年間かけて自分の興味あることをまとめる「個人課題研究」があった。大野さんは「人とモノの流れ」をテーマに選び、それがマーケティングの仕事を目指すきっかけになったという。
「世の中は華やかなバブル期で、DCブランドや百貨店が元気なときでした。CMなど広告も注目され、コピーライターがもてはやされた時代。言葉の力ひとつで、『モノを買いたい』という人の購買意欲を喚起するのはすごいことだと思いました。マーケティング論の本もたくさん出ていて、調べるほどに面白くなっていき……、将来は何かそういう仕事ができたらいいなと考えるようになりました」
また、チームをまとめる仕事がしたいとも考え、志望したのは企業の宣伝部。新卒で入社したのは、飲料メーカーのキリンビバレッジ(現・キリン)だった。
「キリンの『午後の紅茶』がとても売れていて、小泉今日子さんのCMがすごく好きでした。最初は営業部に配属され、トラックを運転して飲料を運んでいましたが(笑)、ずっと『宣伝部へ行きたい』と言い続けていたら、たまたま空きができて2年目に配属されたのです。すごくラッキーでした」
カリスマ上司からチームを守れず転職を決意
大野さんは「午後の紅茶」の広告宣伝を担当。キャンペーンの企画や市場調査、新商品のブランディングも任され、充実した日々を送っていた。「午後の紅茶」は業界一位の売り上げを誇り、CM好感度も年間トップ10入りを達成。自分で「午後ティー」チームを持つようになると、信頼するメンバーと作品を創りあげる喜びは大きかった。
しかし、あるとき“カリスマ”と言われる凄腕の上司が着任。その頃から少しずつ部内に波風が立ち始めていく。
「たたずまいからオーラがあり、話し方も人を引きつける魅力がある人。『おまえたちがやりたいことをやれ』と懐が広く、社内でも人気の上司でした。でも、ある日、ふと気がついたのです。結局、その上司は自分のやりたい方向にもっていくのが巧みなのだと。プレゼン上手、巻き込み上手なので皆も賛同するけれど、私たちはうまく転がされているだけなんじゃないかと」
大野さんは社外の代理店やスタッフと信頼関係を築き、チームを大切に育てたいと思っていた。だが、上司はコンペで選ぼうと言い出し、競い合った末に他のチームに決まってしまう。その結果、大野さんが一緒にやってきたメンバーが総入れ替えになったのだ。しのぎを削る広告の世界ではやむをえないことではあるが、消化しきれない思いもあったと大野さんは振り返る。
「自分のチームを守れなかったことが悔しくて、初めて社内のトイレで泣きました(笑)。私も未熟だったので、もうちょっと修業しなければと思いまして……」
カリスマ上司の手の内で転がされているのは嫌だった。それでは本当の力はつかないという焦りもあった。キリンビバレッジで広告宣伝を担当した3年間。20代後半になった大野さんは、その先の生き方を考えたという。
「自分の肩書きといえば、『キリンの一社員』でしかありませんでした。そうではなく『私は○○です』と自信をもって言える人間になりたかった。何度か一緒にお仕事をした尊敬するプロデューサーが自分のことも上手く表現しながら、良いチームを育てているのを見て……そんな風になりたいと思いました。そこで私も、30歳までにプロデューサーになりたいと思ったのです」
チーム一体となってCMをつくる日々に没頭したプロデューサー時代
2000年5月、転職活動の末、広告の制作会社の中でもトップ3のひとつ「AOI Pro.」に入社すると、いよいよクリエイティブの現場へ。「プロデューサー」になるための修業が始まった。
「最初はガムテープを背負って、現場を走り回るアシスタントからスタートします。お弁当の発注や掃除から始まり、新入社員の中でがんばっていた感じです(笑)。会社に泊まり込むこともしばしば。毎日大変でしたが、若い同期よりも相当がんばらなければと思っていましたね」
5年目には念願のプロデューサーに昇格。クライアントの意向に応じて企画を詰め、監督、カメラマン、美術などの人選を担う。撮影現場には、タレントはじめ多くのスペシャリストが50人以上揃い、それぞれの才能を活かして創りあげていく一体感がある。所ジョージさんのアサヒ飲料WONDAシリーズ、小雪さんが出演したPanasonic VIERAなど、数々の人気CMを手がけた。
「帰宅したら命の保証はない」緊急入院で考えたこの先の人生
刺激あふれる現場は楽しく、夢中で働いていたプロデューサー時代。だが、オーバーワークで身体が悲鳴をあげることになった。
ある日曜日の夜、高熱が出て、背中から腰にかけてひどい痛みに苦しんだ。翌朝、病院で血液検査をすると、白血球の数が激増していた。腎盂炎を起こし、腎臓の機能も悪化していると告げられ、「そのまま入院してください。帰宅したら命の保証はありません」と言われたのである。
大野さんは「一時間だけ家に帰してほしい」と頼むと、会社へ直行。自分がいなくなると現場の進行が遅れ、チームやクライアントに迷惑をかけてしまうと思い、仕事の引き継ぎを行った。そこから入院生活が続くが、仕事のことが頭から離れなかった。
「すると担当の女医さんに『あなたががんばっていることはわかるけれど。良い機会だから、ゆっくり自分の人生について考えてみてね』と諭されて。たしかに自分では『私がいなければ……』と気負っていたけれど、自分が入院していても会社の仕事はちゃんと回っていたのです。私はこのままではもっと体を壊してしまう、それが転機になりました。」
そのとき頭に浮かんだのは、結婚して家庭を築きたいという思い。大野さんは仕事と家庭を両立するため、自分の働き方を変えようと決めた。
子育てと両立中、新入社員に言われたショックな一言
35歳で再び転職したのが、三菱UFJ投信(現・三菱UFJ国際投信)。投資信託はまるで畑違いの分野だったが、それまでの経験を活かして、営業企画部で広告制作やブランディングを任されることになった。育休や時短制度など働きやすい環境も魅力に感じた。
大野さんは入社後に結婚し二人の子どもを授かるが、現実に育児と子育てを両立するのは大変で、子育てをしながら勤務する総合職の女性も少なかった。復職後しばらくは保育園のお迎えもあり定時退社していたが、新入社員の男子に「いつになったら残業できるようになるんですか。仕事量も限られるし、責任ある役職なのにずるいです」と言われたと苦笑する。
「すごくショックでしたが、やる気満々の新入社員の男性には理解できなかったのだと思います。でも、そこで私がひるんでしまっては後輩の女性たちのためにならないと奮起しました。ただ迷惑はかけたくなかったので、自分の仕事は常に整理して共有サーバーに入れておく。また毎日3時くらいにチームでミーティングをして、引き継ぐことをきちんと伝えておきます。今までは人に頼ることが苦手だった私も『ごめん! これ、お願いしていい?』と甘え上手になりましたね」
自分への再挑戦。支えてくれる言葉と変わらない原動力
子どもたちが小学生になり、子育ても少し落ち着いた頃、大野さんはシニアマネジャーに昇進した。セーブしていた仕事をフル稼働させていくなかで、また先のキャリアを考えるようになったという。「定年まで残り10数年で何ができるだろうか……」と。そこで声をかけられたのがチューリッヒ生命だった。未知の保険業界でしかも外資系企業。すべてが新しい挑戦だったが、大野さんは迷いなく飛び込むことを決めた。
2020年6月、まさにコロナ禍での入社となり、初日から在宅勤務に。そのため部内のメンバーの顔もわからず、まして他部署の様子はまったく掴めない。まずコミュニケーションを取ることから苦戦した。なるべく他の人が出社するタイミングで自分も出社して、ランチを一緒に食べたり、まめにTV会議をして仕事以外の話もしてみたり、メンバーとの距離を縮めることを心がけたという大野さん。それでも先の見えない状況ではやはり不安や気苦労も大きかったことだろう。そんなとき支えになったのが「日々笑進」という言葉だった。
「ちょうど仕事も子育ても悶々としていたとき、男性の先輩が『日々笑進だよ』と紙にメモして、そっと渡してくださったのです。悲しい顔をしていても何が変わるわけじゃない。私が笑ってさえいれば周りやチームも笑顔になるから、ちゃんと前へ進んでいけるのだと。そう考えたら、気持ちが少し軽くなって。今でもそのメモは大切に持っています」
常に前を向いて次の目標に向かって進んでいく原動力はチームで働くことの喜びにあるという。実は大学時代、ラグビー部のマネージャーをしていたという大野さん。まさに「One for all All for one」の気持ちが、彼女の生き方にもつながっているのだろう。