※本稿は、大嶋信頼『チクチク・いやみ・理不尽と感じる「ほんのひと言」に傷つかなくなる本』(大和書房)の一部を再編集したものです。
頭が真っ白になってしまう人の特徴
頭が真っ白になる、その本当の正体は「相手の立場に立って、相手の苦しみを請け負ってしまう」ことです。
頭が真っ白になった瞬間には、すでに誰かの苦しみを請け負ってしまっている。
自分の苦しみだったら「なんとかなる」と苦しみを軽減することができますが「相手の苦しみ」だと相手のものだから「自分では処理できない」とパニックになってしまいます。
でも、頭が真っ白になっている人は「自分がパニックになっているだけ」と、まさか他の人の苦しみを請け負ってパニックになって苦しんでいるなんて想像することもできません。
頭が真っ白になってしまう人は、他の人から見ると「この人には自信がある」という印象を持たれがちで、本人も「私には何も問題がありません」というように振る舞ってしまいます。
でも、その中身は「自分には何の価値もない」と自己肯定感がものすごく低かったりするんです。
そして、自己肯定感が低ければ低いほど、それを人に悟られないように「私はすごいんです」と虚勢を張らなければならなくなります。
そして「私はすごい」という虚勢を張れば張るほど、自分の中身の自己肯定感がどんどん下がってしまって「自分には何も価値がない」となってしまう。
そうなると常に「周りの人の気持ち」に敏感になります。
「自分に価値がないことがバレてしまうのでは?」とビクビクしているからです。
虚勢を張って周りから期待されているのに「期待を裏切って失望させてしまったらどうしよう」と怯えているから「周りの人の気持ち」にものすごく敏感になります。
自己肯定感が低いほど、人の苦しみを請け負ってしまう
本人は「無価値なのがバレる恐怖」でパニックになってしまう、と思っています。
人の反応にものすごく敏感で自分の恥ずかしさ、虚しさが相手にバレてしまう恐怖で「頭が真っ白になる」と心のどこかで思っています。
でも、実際は「自分には価値がない」と思っていると、「他人の苦しみを請け負うしか価値がない」となってしまうんです。
そうして自己肯定感が低ければ低いほど、他人の苦しみを請け負う役割を自動的に選択してしまうようになります。
会議の場面で「頭が真っ白になる」というのも、それは「自分が緊張してパニックになっている」と思っているのですが、実際は「会議の司会者が苦しんでいる」のを請け負ってしまって「頭が真っ白になる」という状態です。
隠してきたコンプレックスも「頭が真っ白」の原因に
私は学生時代に「グループで輪になって、一人ずつ立って演技をする」という授業を受けさせられました。
もちろん私は演技が苦手だったので「どうしよう?」とビクビクしていました。
そして「私は人前で恥をかくのが怖いんだな」と思っていました。
ところが、私の順番が来るはるか手前で、綺麗な女の子が演技をしているのを見ていたら、隣にいた友達に「お前、何でそんな真っ赤な顔になっているの?」と指摘されてびっくりしました。
確かに、その女の子の順番になって立ち上がった瞬間、私は頭が真っ白になって「ここから飛び出して逃げたい!」という気持ちになってしまっていました。
しかも、真っ白な頭とは真逆に、自分の顔が赤くなっていることなんて全く気がつきもしませんでした。
女の子の演技が終わったあとには私の顔の赤さも引いたので、周りから「お前、あの子のことが好きなんだろ!」と冷やかされるほどでした。
私は、周りからは自己肯定感が低いとは全く思われていなかったのですが、自分の心の中のどこかではものすごく惨めで薄汚れていて醜い存在と感じていて、その自己肯定感の低さを見ないようにしていました。
自分から見ないように隠していた自己肯定感の低さによって、他人の苦しみを請け負う役割を自動的に選択するようになっていたのです。
自己肯定感の低さの原因は「幼少期」
こうした自己肯定感の低さは、どうやって出来上がってしまうのでしょうか。
私の場合は、兄が生まれてすぐに亡くなったため、次に生まれてきた私は「どんなすごい子が生まれてくるんだろう?」と期待されていました。
ところが親から「あんたにはがっかりだよ! 兄さえちゃんと生きていれば!」ということを思われていました。
最初の子供が亡くなってしまって親の期待が高まるのはわかります。しかし、次の子供は、その期待に応えられず親から「がっかりだよ!」という態度をとられるたびにどんどん自己肯定感が低くなってしまいます。
「自分は人の苦しみを請け負うしか価値のない人間」と思うようになってしまって頭が真っ白になる。
そして、頭が真っ白になればなるほど、さらに自己肯定感が下がってしまうので「ありとあらゆる人の苦しみを請け負う」ということになり、頭が真っ白になってどんどん自己肯定感が下がってしまうのです。
がっかりされる度に自己肯定感が下がる
プロスポーツ選手のお子さんが「あのお父さんはすごい選手だからお子さんもすごいはず」と思われていたのに「がっかりだよ!」と親からもそして、周囲からもやられてしまう。すると本人が知らないうちに自己肯定感が下がってしまいます。すると自己肯定感が低いから「虚勢を張らなきゃ」と偉そうに振る舞います。それをすればするほど「がっかりだよ!」という反応が多くなるから「さらに自己肯定感が低くなる」のです。
ある女性は「ものすごく容姿が美しい」と評判になっていて「会う前から期待されちゃう!」とプレッシャーになっていました。
周りが勝手に想像を膨らませて期待しているだけなのに実際に会った時に「がっかりだよ!」という反応をされるたびに自己肯定感が下がってしまいました。
外見と内面の差がどんどん開いてしまって「人の苦しみを請け負うしか価値がない」というぐらいまで自己肯定感が下がっていることに本人も気がつかないまま、「どうしてこうなるの!」と頭が真っ白になってしまったんです。
「頭が真っ白」になる人の隠れた才能
頭が真っ白になってしまう人は、「人の苦しみを請け負う」ということをしている、つまり「人の気持ちが良くわかる」という共感力が高いことになります。子供の頃にアニメとかを見ていて「人の気持ちがわかる超能力があったらいいな?」と思ったことがありますが「共感力」がそれになります。人の気持ちが勝手に伝わってきて頭が真っ白になってしまう。「子供の頃に思っていたのと全然違うじゃない!」とツッコミを入れたくなります。
共感力と言われると、人の気持ちが手に取るようにわかって、傷ついた人の心を癒してあげられる、というイメージでしょう。
それなのに、共感力が高いと、相手の苦しみを請け負ってしまう。「こんな惨めな状態になるんだったら、人の気持ちなんてわからないほうがいい!」と思ってしまうわけです。
そして、実際に「頭が真っ白になる」人は、周りの人から「この人は、ほかの人の気持ちがわからない」と思われていたりするんです。
「え? あんなに人の苦しみを請け負ってパニックになってしまうのに?」と思いますよね。
そうなんです。本当だったら「頭が真っ白になる」というのは「才能」なんですけど、本人がその才能を自覚していない。
無自覚なままでいるとマイナスにしかならない
才能を自覚していないと「頭が真っ白になる」という時に「これは自分の才能で他の人の感情を請け負っているから」と認識することができない。
才能を自覚していないと「他人の苦しみ」を自分のものにしてしまうから「頭が真っ白になる!」になってしまう。
この時に「自分だけが苦しんでいる」と一人でもがいてしまい、「この人は自分の苦しみだけに注目して相手の気持ちに寄り添うことができないんだ」と周りの人に思われてしまいます。
頭が真っ白になってしまう人は、ぱっと見た限り「あ、人の気持ちをわかってくれるような優しい人だな」という印象を持たれるから期待されるわけです。
けれども、人から請け負った苦しみを自分で処理できずに「苦しくて他の人のことが考えられない!」となるから、「人の気持ちがわからない自分勝手な人」と見られてがっかりされてしまう。実際は人の気持ちがちゃんと伝わってきているから「苦しい!」となっているだけで、共感力は高いのです。ただ、自分がちゃんとその才能に気がついていないだけなんです。
「共感力」の才能は今すぐ自覚すべき
ですから「頭が真っ白になる」というのは共感力という才能なんだ、という自覚をちゃんと持つだけでいいんです。
実際に頭が真っ白になった時に「あ! これは誰かから伝わってくる苦しみだな」とわかって、その苦しみを自分のものにしなければ頭が真っ白になることはなくなります。
そして頭が真っ白になった時に苦しみに注意を向けて「これは誰からのもの?」と考えて、「あなたはこんなに苦しんでいるんですね」と苦しみを抱いている本人にフィードバックができれば「この人、すごい共感力!」とびっくりされるようになるでしょう。