日本HPでEコマース事業本部リテールビジネス本部の本部長として、チームを率いる宮野安理さん。派遣社員として入社した宮野さんが本部長になるまでに経験したのは、まさに七転び八起きの日々。「上を目指したい」と意気込んだ宮野さんが思わぬ休職後に学んだ、仕事もプライベートも大切にするたったひとつのコツとは――。

バスケ観戦のためお金を稼ぎたい

キャリアを築いてお金を稼ぎたい――。そう心に決めたのは高校生のとき、海外留学していた頃だ。NBA(アメリカのプロバスケットボールリーグ)のボストン・セルティックスが大好きで、初めて現地で試合を観戦した。

日本HP Eコマース事業本部リテールビジネス本部 本部長宮野安理さん
日本HP Eコマース事業本部リテールビジネス本部 本部長宮野安理さん(写真=日本HP提供)

「体育館の一番上の3階席でもすごく感動しましたが、選手が間近に見えるコートサイドの席があって、“いつか、あそこの席に座りたい!”と思ってしまい(笑)。コートサイドの席は100万円もするので、お金を稼ぎたいというのがモチベーションになりました」

高校3年間をカナダで過ごした宮野安理さんは、日本とはまるで異なる文化やライフスタイルに刺激を受けた。「あなたはどう思う?」「なぜそれが好きなの?」と意見を交わす学生たちにもまれ、多様な人たちとコミュニケーションをとることに興味を抱く。それが仕事にもつながった。

キャリアのスタートはホテルマン。新卒で就職したキャピタル東急ホテルではレストランサービスの部門に配属される。

「エグゼクティブの方々を接客することが多く、いろいろ教えられました。例えば最初の頃、大きな声で『いらっしゃいませ』と挨拶したら、怒られたんです。なぜ怒られたのかが分からなかったのですが、その方は耳の調子が良くないので、ハイテンションでは疲れるのだと。このホテルは自分にとって第二の家のように大切な場所だから、家に帰る人を迎える気持ちでいてほしいと言われました」。

プライベートを優先すべく派遣社員に

ホテルの仕事は楽しかった。次に移ったザ・リッツ・カールトン東京では海外からのゲストが多く、やりがいも感じていた。だが、職場では立ち仕事が多く、腰痛がひどくなっていく。自分の体調に加えて家庭の事情もあり、不規則なシフト勤務に「ずっとは続けられないな……」と思い、5年勤めたところで転職を決意。家事を支えるために、宮野さんは定時で勤務できる「派遣」という働き方を選んだ。

「新たにチャレンジするなら知らない業界がいいなと思いました。幾つか紹介された中で『日本HP』が気になって調べると、世界170カ国で事業展開しているグローバルカンパニー。多様性を重視する文化も魅力的でした」

2010年に派遣社員として入社。コンシューマー向けの営業部門で家電量販店など店頭のマーケティングのアシスタントを担当する。IT業界は未知の世界でも、接客が肌に合っていた宮野さんは店頭マーケティング職で力を発揮していく。

リモートワークの導入で正社員に

入社5年目に正社員として採用される。職場に2007年からリモートワークが導入されたことで、家事に支障ない働き方ができたからだ。当時の上司は女性の活躍促進を積極的にサポートしていた人で、「労働時間ではなく結果で評価する会社だから、短時間で結果を出していくことで契約社員時代よりも柔軟な働き方ができるようになると思うよ」とキャリアを後押ししてくれた。

2年後にはウェブで販売するEコマース事業の部署へ異動し、5人ほどのチームを率いるリーダーに昇進。上司も変わり、すべてが初めての挑戦だった。

「新しい環境を楽しめるタイプだったので、慢心もあったのでしょう。それまでは量で勝負というか、何でも断らず引き受ける仕事のやり方をしていましたが、当然ながらそのままで通用するわけがなく。リーダーの私がいちばん業務を知らない状況でマネジメントもしなければならない。求められる質が上がる中で考え方も行動も変えなければ到底できなかったのに、同じやり方を続けていたのでついにパンクしてしまい……」

周りに助けを求められず、一人で抱え込んだ。業務量が膨大にふくらみ、質は落ちていく。メンバーとのコミュニケーションも努めたが、アドバイスできない焦りがつのるばかり。3カ月経った頃、上司から声がかかった。

「そこで『この3カ月間に宮野さんがやったことは何?』と言われたんです。自分では頑張っていたつもりでも客観的に見ると何もできていなかったのか……と、衝撃を受けました」

過労で休職に

「上を目指したい!」という夢があった宮野さんはもっと完璧にやらなければと気負う。家へ帰っても仕事が気になり寝不足が続くうち、頭がぼんやりしてふらつくことが増えた。ある日、めまいで倒れこみ、やっと身体の不調に気がついた。しかし、病院であらゆる検査をしても原因はわからない。最後に訪ねた耳鼻科医に「これはメンタルな症状だから心療内科へ行って」と勧められた。自分は精神的に強いと思っていたので「まさか……」と驚くが、診察を受けると、過労からくる鬱病と告げられた。

「休暇を取るよう勧められました。が、それも嫌だったんです。今まで築いてきたキャリアが全部崩れちゃうんじゃないか。このまま働けなかったら本当に辞めなきゃいけないんじゃないかと不安でいっぱいになりました。ここで私のキャリアは終わるのか、と」。

そんな宮野さんを支えてくれたのが、交際中のパートナーだった。「仕事を休みたくない」と漏らすと、彼は「会社を休んでも今まで培ってきたスキルやキャリアがなくなるわけじゃないし、もう一回チャレンジできるチャンスは絶対に来るから、そこでまたチャレンジすればいい。今は休むことが仕事だよ」と励ましてくれた。その言葉で気持ちが軽くなり、上司と相談して休暇をもらうことにした。新しい部署でちょうど一年が過ぎた頃だった。

「クリニックの先生に言われたのは、『とにかく何も考えないことが仕事です』と。でも何も考えないというのはとてもつらいんですよね」と宮野さんは苦笑する。読書や映画も頭を使うので禁じられ、何もしないでただただゆっくり休む。アロマや静かな音楽で心を静め、睡眠は7時間以上とる。最初は慣れなくて大変だったが、だんだん休めるようになると身体も元気になり、散歩に行けるようになった。少しずつ日常生活を取り戻していくなかで、上司と話し合いながら復職を目指した。以前厳しい言葉をかけられた上司だが、いつでも宮野さんの希望や状況を汲んで一番良い方法は何か? と寄り添い、育ててくれる人で、復職後についても親身に考えてくれた。

最重要顧客とのミーティングか、結婚記念日のディナーか

3カ月の休暇を経て職場へ復帰。無理のない業務を任され、働き方も見直していく。宮野さんは社内でダイバーシティの活動を始め、あるとき海外の女性マネジャーに「ワークライフバランス」について聞く機会があった。

「プライベートと仕事を両立するにはどうしたらいいかと質問すると、『あなたは最重要顧客とのミーティングと結婚記念日のディナーのどちらを大事にする?』と聞かれたんです。私は『最重要顧客とのミーティングでしょう』と答えたのですが、彼女は『それではワークライフバランスはとれないよ』と。最重要顧客とのミーティングはもちろん大事だけれど、それはずらせる約束かもしれないし、やり方次第でコントロールできるもの。『ただ最初からプライベートと仕事のどちらも大事にしようと思っていないと、やり方を考えないよね』と言われたのです」。

大切なのは「そのとき優先すべきことはどちらかをちゃんと考える」ということ。宮野さんは仕事を優先するあまりバランスを崩したことを反省し、それ以降は何事も優先順位をつけてこなしていくように努めた。

改めてキャリアについて考えたきっかけ

女性の働き方を見つめ直す中で、改めて「キャリア」についても考え始めた。きっかけは社内で女性活躍促進団体「Women Impact Network Japan」を立ち上げ、ダイバーシティについて勉強したこと。日本では女性のマネジャー層が薄いことが課題になっている。一方で女性は男性以上に完璧を求める傾向があるという調査もあり、自分もそれが足かせになっていたことに気づく。

「実はもうマネジメントは嫌だなと思っていて。無理なく働ける方がいいかなと思いながら復職したんです。けれど、女性がキャリアアップを目指すことは重要なこと。私はまだまだチャレンジしていないと思えるようになったんですね」

本部長としての初めての評価は最悪

宮野さんはもう一度チャレンジのチャンスを与えられた。2019年6月、Eコマース事業本部で本部長に昇進。営業部3チーム、企画部1チームを率いることになる。初めて管理職になり、意欲満々でがんばっていた。が、その矢先、またもショックな出来事があった。

年一回、全社で実施される社員アンケートで、宮野さんのチームの評価は非常に悪かった。働きやすさはどうか、その部署で安心して発言できるか、などさまざまな質問があるアンケートで、部下たちが満足していない項目が多数あるという結果が出たのだ。マネジャーとして『不合格』と言われた気がして、何度もファイルを開けては、また閉めることを繰り返した。

そのとき宮野さんは初めて周りの先輩マネジャーたちに意見を聞いてみた。するとアンケートの捉え方は人それぞれ違い、多様な見方があることがわかった。

「ある方には『良かったじゃん。組織として成長できるチャンスがすごくあるってことだね』と言われたのです。スコアが悪いということは、まだまだ組織として改善できることがある。『宮野さんはマネジャー1年生だけど、組織も一年生だから』と。なるほどと思って、ファイルを閉めることはもうやめました(笑)」。

多様な意見を聞ける「リモートワーク」で組織の成長を促進

それから、宮野さんがマネジメントで心がけるようになったのは、自分自身が未来を見据えること。こういう組織になりたい、こんなビジネスを展開したいというビジョンを積極的にメンバーに伝えるようになった。それと同時に「クイック・ウィン」、小さな成功実績を積みあげていくことで組織としての自信をつけながら、メンバーが成長していけるチャンスを与えるように努めているそうだ。

宮野さんが快適に整えたという在宅デスク
写真=宮野さん提供
宮野さんが快適に整えたという在宅デスク

気づけば、管理職になって2年が過ぎた。その間にはコロナ禍でビジネスもさまざまな変革を求められている。他の企業からはリモートワークの難しさをよく聞くが、コロナ以前から導入し、そのメリットを熟知する宮野さんはこう語る。

「リモートワークは、コミュニケーションスキルが身につく良さがあります。対面のミーティングではキャラクターが強い人や声の大きい人に引っ張られがちですが、リモートでは一人ひとりにフォーカスすることで多様な意見を聞けます。組織の中にはいろんな年代の人たちがいて、コミュニケーションツールも変わってきている。電話、メール、チャットとそれぞれに適したツールを使いわけることで、コミュニケーションを円滑にするスキルも身につくのではないかと思います。ただ気を付けているのはゴールの擦り合わせ。例えば『今日中に提出』という今日中の定義も、リモートワークだと、人によっては終業時間なのか、24時なのか明朝9時なのかズレが生じやすいので、『○時までに』とゴールとその時間にほしい理由を明確に伝えるようにしていますね」

ストレスを感じやすい日々の中で宮野さんが大切にしているのは、家庭でのコミュニケーションだ。休職のつらさを支えてくれた彼とは復職後に結婚。一日の終わりにその日の出来事や考えたことをシェアすることで、気持ちを落ち着かせて眠りにつくことができる。

もうひとつのリラックス法は、今も大好きなNBAのボストン・セルティックスの試合を観ることだという。毎年、アメリカへ観戦に行っていたけれど、コロナ禍ではかなわない。それでもコートサイドの席に座りたいという高校生からの夢は変わらず、「今もそれがモチベーションですね」とほほ笑む宮野さん。その夢にも少しずつ近づいているそうだ。