2019年にドラマ化され、企業で働く女性のリアルストーリーとして支持されている『わたし、定時で帰ります』シリーズ。3作目となる『わたし、定時で帰ります。 ライジング』では、デジタルマーケティングを支援する会社に勤める結衣がマネージャー代理に昇進。同僚であり元婚約者でもある晃太郎と復縁し、公私ともに好調かと思えば、残業したがる部下と残業削減を目指す会社上層部の間にはさまれ苦悩することになる。会社員経験のある作者・朱野帰子さんにこの新作に込めた思いを聞いた――。

残業したがる部下たち

――結衣はこれまで人間らしい生活を送るため、また効率よく仕事をするため、残業をしないという主義でしたが、管理職として、自分より若い部下たちの「残業したい」という要望に向き合うことになります。彼らが残業するのは生活のため。朱野さんがこの「生活残業」の問題に気づいたのはいつですか?

作家 朱野帰子さん
作家 朱野帰子さん(撮影=新潮社)

【朱野帰子さん(以下、朱野)】私が新卒で入った会社は裁量労働制で残業代が出ませんでした。転職して入った2社目は残業をさせない方針の会社で、残業は月に30分ぐらい。残業代はほぼもらわず、それで生活するという感覚はありませんでした。それで、『わたし、定時で帰ります。』『わたし、定時で帰ります。 ハイパー』の2作では残業代の話は出てきませんでした。

ところが、ドラマが放送されたとき、Twitterの感想を見ていると、「ドラマには残業代の話が出てこないよね」「私の会社は基本給が低いので、定時で帰ると生活できない」という意見がありました。ある女性誌にインタビュー記事が載ったときも、私の記事の隣に「働き方改革で夫の給料が減ってしまう。家計はどうする」というテーマの記事があり、定時で帰ろうという主人公の結衣の主張が残業代を奪う悪者のようにも見えて(笑)。それがきっかけで3作目は給料の話にしました。

――部下の残業を減らすため、給料を上げる交渉をするという発想は、ビジネス誌でもなかなか取り上げられない視点だと思いました。

【朱野】企業の人事部の方に聞いてみると、ワーカホリックになって残業してしまう人は減ったけれど、なんとなくという感じで“薄く”残業する人がいるので、会社としては(基本給の)賃上げがしにくいということでした。やはり、30年前にバブルが崩壊して会社の経営が本当に苦しくなり、社員側も共倒れにならないように賃上げを求めなくなり、そのまま現在まで来ているというのが日本企業の現実なのだと思います。

部下との約束

――結衣は部下に「残業を減らしたら給料を上げる」と約束し、部長に働きかけます。管理職になった女性がそうやって動いていくのが痛快でした。

【朱野】現実的にはなかなかできないでしょうが、結衣は小説の主人公だから頑張ってほしいという思いがありました。現実でも今、労使交渉が注目されています。最近だと保育士さんたちが「労働環境が改善されないと、安心安全な保育ができない」と保育園の経営側と交渉した例もありました。そもそも日本で初めてのストライキを起こしたと言われているのは雨宮製糸工場の工女たちで、若い女性たちなんですよね。

残業
写真=iStock.com/pixdeluxe
※写真はイメージです

――3作目にして結衣の年収がはっきり示されたのも印象的でした。

【朱野】賃上げの話なので、そこをオープンにしないと始まらない。年収額はいろんな人に取材して決めましたが、連載している雑誌にそのエピソードが掲載されたときは、「具体的な数字を出さなきゃよかったな」とけっこう落ち込み、1週間ぐらいろくに眠れませんでした。というのも、非正規雇用の人も含めた女性の平均給与(編集部注:2019年で295.5万円/国税庁)からすると決して低くはない額なので、「なんだ、たくさんもらえているんだ」と思われるかもしれない。私も会社員時代、結衣ほどの給料をもらったことはないですし、高すぎて「私とは違う人だ」と思われてしまうかもと……。逆にバリキャリの人から見ると「そんなに低いの」と思われるかもしれませんね。同じデジタル産業でも、結衣より上の世代はもっともらえていたという話も聞きました。

――死ぬほど仕事して会社を支えている晃太郎の年収も意外な金額でした。

晃太郎と同世代の人からは「あの数字はリアルだったよ」と言ってもらい、ほっとしました。「リアルすぎて平常心じゃ読めない」とも。やはり氷河期世代の人はみんな多かれ少なかれ、中途入社した晃太郎のように這い上がるということを経験しているんですよね。

夫婦で稼ぐ部下世代に心がざわつく昭和おじさん

――結衣の上司・池辺部長は、いかにも“昭和おじさん”という感じで保身一辺倒。読んでいて怖くもなりました。

朱野帰子『わたし、定時で帰ります。 ライジング』(新潮社)
朱野帰子『わたし、定時で帰ります。 ライジング』(新潮社)

【朱野】私も池辺を書きながら「こんな悪い人、いないだろう」と思っていたけれど、読んだ人に「普通に会社にいます」と言われました。不思議なのは、池辺部長のように自分の給料が高いと、他の人のことはどうでもよくなっちゃうんですよね。

その一方で、池辺は実は誰よりも年収にこだわっていて、それがアイデンティティにすらなっている。奥さんが専業主婦なので、自分が稼がなきゃいけないという気負いや、なんとしても会社にしがみつかなければいけないという悲壮感もありますよね。自分より下の世代、結衣たちは共働きで、ひとりひとりの年収はたいしたことなくても2人足すとそれなりの金額になるので、「夫婦で稼いでいます」と言われると、心がざわっとするんじゃないかと。

この所得では結婚も子どもも無理

――「自分さえ良ければ他の人はどうでもいい」という心理に陥りがちな組織人の怖さが描かれていました。

【朱野】池辺よりもっと無関心な人もいますよね。上の世代には若い人が貧乏だということを知らない人もけっこういる。例えば「なんで今の若者は車を買わないんだろう」とすごくピュアに言ってくるような人に、ぜひこの小説を読んでほしいけれど、そういう人は読んでくれない。

私も氷河期世代ですが、40代になるまでは「自分たちの給料って低かったんだ」と気が付かなかった。同世代で比べると、みんな低いけれど、上の世代の人は同じ年頃にはもっともらえていたし、そのときは消費税も低く社会保険料も少なかったということで計算していくと、実質賃金で比べると驚くほど低い。それを考えずに“足るを知る”という精神にさせられているところはありますね。

でも、この所得では結婚もできないし子どもだって簡単には作れない。若い人はもっと怒ってもいいのだと思います。経済的に余裕がないと不安だし、どうしても他者の権利を認めづらくなって、いろんなヘイトの感情も起こってしまう。そこをボトムアップしないまま、「他者の権利を大事にしましょう」と言われてもなかなかできないですよね。20代の頃からそこに疑問があったので、今回は、それが書けてよかったなと思います。