納棺師として数千人の生と死に向き合ってきた木村光希さんは、「死はおそろしいことでも不吉なことでもない」と語ります。死を真正面から考えるからこそ見えてくる生き方の指針とは――。

※本稿は木村光希『だれかの記憶に生きていく』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

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忘れることのできない、ある夫婦の納棺

いまも忘れることができない、まだ駆け出しのころに担当させていただいた、あるご夫婦の納棺があります。交通事故で同時に亡くなられたそのご夫婦には、高校生の男の子がいました。ひとりっこの、3人家族でした。

言うまでもありませんが、お父さんとお母さん、どちらかを亡くすだけでもとてもつらいことです。それなのに、その少年は両親を同時に、しかも突然失ってしまった。彼の痛みや混乱がどれほどか、「駆け出し」ということを差し引いても想像できるものではありませんでした。

きっと朝、いつものように「いってきます」と言って玄関を出たのでしょう。思春期まっただ中ですから、ちょっとそっけなかったかもしれない。それを、後悔しているかもしれない。家に帰ったら夕食が用意されていて、それを食べながらなにげない会話を交わす、そんな「日常」が待っているはずだったのです。

ご夫婦だって、たったひとりの子どもであるこの少年の未来を信じ、またたのしみに描いていたことは間違いありません。その未来を見守れることを、応援できることを、疑っていなかったでしょう。

なにもできなかった無力感

きょうだいもおらず、ご親族も少ない様子でした。これからひとりでかなしみを受け止めなければならない17歳の彼に、なにかすこしでもケアにつながることばを……そう焦る自分がいました。

木村光希
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しかしその子は、もうほとんどコミュニケーションを取ることもできない状態。ただ声とも言えない声をあげて泣きつづけ、火葬場では立っていることもできなかった。故人さまとの思い出を振り返る、どころではないわけです。

その姿、かなしみ、残酷さを目の当たりにして、ぼくはなにもできませんでした。なにか伝えたいと思いつつも、余計なことを言ってしまったらどうしようと、かけることばが見つからない。

自分にできることなど、なにもない―――まるで腫れ物に触れるかのような気持ちと無力感を、いまでもはっきりと思い出せます。

当時は実力も経験も不足していた、いまだったらもっといろいろなかたちで彼のサポートができる、と思うのですが……あのいたたまれなさと後悔はぼくの胸に残りつづけています。

いつかはだれもが「おくられる人」に

納棺師という仕事をしていて毎日のように突きつけられるのが、「人はみんな死を迎える」という厳然たる事実です。いつかはだれもが「おくられるひと」になるのです。

喪服
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たとえば入学や卒業、就職、出産といったあらゆるライフイベントは、経験する人もいれば経験しない人もいます。「成人式」「還暦のお祝い」のような年齢ごとに発生するイベントも、その年に達する前に亡くなれば経験することは叶いません。

また、「結婚するまでには」「仕事が落ち着いたら」○○したい、といった人生の区切りと目標をなんとなく思い浮かべる方は多いと思いますが、これらの区切りもまた、やってくるかはわかりません。結婚しないかもしれない。仕事で落ち着くことなんて一生ないかもしれないわけです。

ところが、「死」だけは100%全員におとずれます。死を経験しない人は、ぜったいにいない。「うちの子にかぎって」も「わたしだけは」もありえない。

いま地球上にいるだれもが経験する、唯一のライフイベントなのです。

しかもそのライフイベントは、いつやってきてもおかしくありません。昨日までふつうにしゃべっていたお父さんが、子どもが、ふっといなくなってしまった……ぼくは、そんなご家族をたくさん見てきました。

結婚式を目前に控えた新婦の死

たとえば、以前ぼくの会社で納棺させていただいた、若い女性。車に撥ねられ亡くなってしまった彼女は、結婚式を間近に控えた新婦さんでした。

入籍は済ませていたという、「夫」になったばかりの方の絶望の表情は、文字にすることなどできません。「このひとと一緒にいたら幸せになれる、幸せにしたい」と思えたその相手を―――しかも、もっとも幸せを嚙みしめているときに―――一瞬で失ってしまったのですから。

「死はいつやってきてもおかしくない」とわかっている納棺師でも、「いまじゃないだろう……」とその理不尽さに唇を嚙みしめずにはいられませんでした。

事故で。病気で。事件で。驚くほどあっけなく、ひとはいなくなってしまいます。今日という日を無事に迎えられたこと、そして明日が来ることは、なにものにも代えがたい奇跡です。

しかし、そんなある意味で究極の「自分ごと」であるはずの死ですが、多くのひとがあまり考えを巡らせていないのが実情です。とりあえずいま元気な自分には関係ないものだ、そんなことを考えてもしょうがない、縁起でもない、とできるかぎり遠ざけているのです。

「死」はおそろしいものではない

では、不意打ちでやってくる「死」とは、おそろしいものなのでしょうか?

ぼくは、そうは思いません。少なくともぼくにとって、死は恐怖ではなく……ただシンプルに、「いまは嫌だな」という感覚が近いかもしれません。「いずれ来るのは重々承知しているけれど、いまは勘弁してほしいな」という感覚。覚悟や恐怖ともちがう、もうすこしカジュアルな感覚です。

木村光希『だれかの記憶に生きていく』(朝日新聞出版)
木村光希『だれかの記憶に生きていく』(朝日新聞出版)

死が必要以上に怖がられたり避けられたりしているのは、先ほど言ったように、それについて考える機会があまりに少ないからではないかと思います。リアリティがないから、目を逸らす。そうして蓋をするからこそ、おそろしいものに感じてしまうのです。おくること、そしておくられることは、とても自然なことです。決して特別なことではないし、ましてやタブー視すべきものではないんですね。

しかし死は、いまこの時間の延長線上にあります。

高いところからモノを落とせば下に落ちる。生きていればお腹が空く。それと同じで、生きなければ死ぬことはないし、死を迎えない生もないのです。だから死について考えるのは、不吉なことでも「縁起でもないこと」でもないのです。

「死」を思うから、生き方を考えられる

みなさんにお伝えしたいのは、むしろ死は、その存在を知っておくことで自分の味方にできるということです。

なぜか。自分が迎えるであろう死を想定し、逆算することで、「どう生きるか」を真剣に考えるきっかけになるからです。

死を考えることは、生を考えること。生きる意味を問い、「どう生きるか」を考えることにつながります。その存在を頭に置いておくだけで、今日の行動や目の前のひとを見る目が変わる。そうすることで、日々をより濃く、豊かなものにできるのではないでしょうか。

「毎日が人生最後の日」では、すこししんどい

どうすれば、日々をより豊かにできるのか。まず、自分なりに「死への距離感」を決めるのがひとつの方法です。

「自分も、この大切なひともいつか死を迎えるんだな」とただぼんやり思うだけではなく、「いつ死を迎えるか」を具体的に想定してみるのです。そして、「それまでにどんなふうに生きていきたいか」を考えていく。

このように「どう生きるか」を考えるうえでよく語られる、有名なスピーチがあります。2005年、Apple社の創業者であるスティーブ・ジョブズが、スタンフォード大学の卒業式で行なったスピーチです。ここで語った、次のことばを耳にしたことがあるでしょうか。

「今日が人生最後の日なら、あなたはどう過ごすか?」

もともとはジョブズ氏が傾倒していた、禅宗の流れを汲む言葉だそうです。たとえ明日命が尽きても後悔しないように、今日という日の自分の選択を、ひとつひとつ見つめよう。意義のある時間を過ごそう。―――そんな文脈で、あらゆる場面で引用されてきました。

たしかにこの「死まであと1日」という短い距離感は、人々をはっとさせます。そして鼓舞する力も持っている。日々のありかたを省みるきっかけになるし刺激をもらえる、すばらしい言葉でしょう。

一方でぼくは、正直、このことばを人生の指針にするのはちょっとむずかしいんじゃないか、とも感じています。

だって、仕事や家庭、自分が好きでやっている趣味だって、がんばれるときとがんばれないときがありますよね。疲れている日もあれば、ちょっとイライラしている日も、かなしいことが起こった日もある。それこそ死ぬまで、24時間365日「今日が人生最後の日なら……」と意識するのは現実的ではありません。息切れしてしまうでしょう。

「人生最後の日」に仕事に行くか

それに、もしも今日が人生最後の日だとして、はたして仕事に行くでしょうか? 市役所の待合に並ぶか? 歯医者に行くか? いつものように、家の掃除をしたり庭の草を抜いたりするか?

……そう問われたら、多くの方が「NO」と答えるのではないかと思います。

人生とは、日々のなんてことのない行為を積み上げていくもの。「未来はつづいている」とどこかで信じているからこそ、今日をがんばれるとも言えるのではないでしょうか。

と、えらそうに言いましたが、ぼくも「今日が人生最後の日」と言われたら、仕事はしないのではないかと思います(笑)。

納棺師の仕事には誇りを持っているし、日々は充実しているし、やりたいことや挑戦したいことはたくさんあるけれども、人生最後の日には家族と過ごしたい。納棺は仲間である会社のスタッフに託し、妻と娘を連れ、実家がある北海道に帰ってしまうかもしれません。

だれに聞いても仕事人間と言われるようなぼくが、なぜそんな選択をするか。

納棺師は「逝ってしまうひと」に寄り添うだけでなく、「遺されたひとたち」の姿や表情をだれよりもよく見ているからです。

ひとの死やかなしみに直接触れる納棺師だからこそ、つまり毎日のように「人生最後の日」を迎えたばかりの方と相対し、遺された人たちがどんな思いを抱え、どんな感謝や後悔を抱くか見てきたからこそ。

「ラスト一日」はなにを差し置いても、まわりの大切な人たちに自分の思いを伝える日にしたいのです。

死への距離感を6カ月に設定する

少し、話が逸れてしまいました。死を意識することは、「どう生きるか」を考えるきっかけになる。まずは死への距離感を決めたいけれど、ジョブズのようにストイックには過ごせない、というお話でしたね。

さて、「今日が人生最後の日」とはなかなか思えないぼくですが、もちろん毎日を漫然と過ごしていいと思っているわけではありません。それではやはり、死が見えてきたとき、確実に後悔してしまいますから。

そこで、ぼく自身は「死への距離感」を6カ月としています。

「あと半年後におくられる」と想定して、ここから6カ月間でなにをするか決めていくのです。半年間元気でいて、本気になればだいたいのことは叶えられるのではないかと考え、この長さに設定しています。

「余命半年」を生きる

「余命半年」ですから、ぼくは基本的にかなり時間にわがままだと思います。だって、「時間は命」なのですから。そう切実に感じているから、いつも「この時間の使い方でいいかな?」と答え合わせをしている気がします。

たとえば、気乗りしない飲み会や集まりに参加することはありませんし、「会いたい」と思ったひとにはなるべく会いにいくようにしています。また、講演会などで地方に行くときも、帰れるときはなるべく自宅に戻るようにしています。まだ幼い娘との1日は、「残りの人生」のなかでかけがえのないものだからです。

もちろん、6カ月ではどうしようもないこともあります。娘が生まれる前からぼくはずっと子どもがほしかったのですが、こればかりは授かりものですし、それに、どうがんばっても半年で赤ちゃんは生まれません。

そこで当時のぼくは「じゃあ諦めよう」ではなく、「甥っ子をめいっぱいかわいがろう」と考えました。「残り半年」だからこそ、甥っ子と会う時間を大切にして、できるかぎりの愛情を注ごうというわけです。

このように、人生の期限が決まっていると、やりたいことに対して一歩でも近づくため「なにができるか?」と前向きに考えて過ごすことができるのです。

ぼくはこの6カ月のリズムを意識すると調子がいいのですが、もちろん人によってペースはさまざま。6カ月ではなく1年、あるいは2年という方もいらっしゃるでしょう。

いずれにしても、死を意識して、命の期限を設けてみることです。そうすることで「やりたいこと」「やったほうがいいこと」「やりたくないこと」「やらなくていいこと」が、自然と浮き上がってくるはずです。