※禰豆子の禰は「ネ」に「爾」が正式表記
マーケターなら、趣味に合わなくても観ておくべし
こんにちは、桶谷功です。
吾峠呼世晴さんの漫画『鬼滅の刃』がアニメ化・映画化され大ヒットし、もはや社会現象にまでなっています。
これだけヒットしているのなら、一度は見ておかねばなりません。家族とは都合が合わなかったので、オジサン1人で映画館に行ってきました。
ちなみに、このようにブームを巻き起こしているものがあったら、たとえ自分の趣味ではなかろうが、軽薄なはやりもの好きと思われようが、必ず一度は見ておくべきです。社会現象にまでなるものには、どこか優れたものがあるし、「時代の気分」に応えている何かがある。それが何なのかを考えるための練習材料に最適なのです。
映画館に来ているのは子ども連れのお母さんたちが大半でしたが、若い人や女性同士の姿も目立ちました。そんななかで中年男性が一人で見に来ていたのは、かなり浮いていたかもしれません。
マーケティングセンスを磨くには、どれほど場違いな場所でも臆さず足を踏み入れることが大事です。私は化粧品売り場だって1人で歩くし、レディースの服しか置いていないブティックに入ることもよくあります。小さい女の子に「おじちゃん、おじちゃん、ここ違うよ」と言われたときは、「お、おじさんは仕事でね」と冷や汗をかきながら弁解したこともありました。
マーケティングによって大ヒット映画が生まれることはない
社会現象の本質をとらえることは、マーケターにとってとても大切です。ただ逆説的ですが、大ヒット映画がマーケティングから生まれることは、ほとんどありません。映画や文芸作品というのは、マーケティングに基づいてつくると、最大公約数が好むものになってあまり面白くなくなる。ただし例外はあって、それがディズニーの映画です。
例えば『アナと雪の女王』は、女性向けの商品のコマーシャルのつくり方と同じで、「かよわくて守られるお姫様ではなく、自ら行動する女性」というような、時代に共感される女性像を造型するところからスタートしている。『鬼滅の刃』はそうではなく、吾峠呼世晴さんの「こういう世界観を描きたい」という思いからスタートしていると思います。
女性にもファンが広がった最大の理由
さて、『鬼滅の刃』がなぜヒットしたのかを、私なりに考えてみたいと思います。
『鬼滅の刃』が連載されていた少年ジャンプでは、「少年が仲間に貢献しながら、がんばって敵を倒したり、何かを達成したりする」という「友情・努力・勝利」というヒットの法則のもとに作品がつくられているというのは有名な話です。その法則にのっとった代表的な作品が尾田栄一郎さんの『ワンピース』だとしたら、『鬼滅の刃』はどこが違うのでしょうか。
まず一番大きいのは、主人公が「ビジョン型」か「共感型」かの違いでしょう。『ワンピース』で主人公・ルフィは、「“海賊王”に、おれはなるっ‼」と宣言する。そのルフィ個人のビジョンに賛同する仲間が一人、また一人と増えていき、敵と戦って倒していく。そうやって目標に一歩ずつ近づいていく達成感で、成り立っているストーリーです。
一方『鬼滅の刃』の主人公の炭治郎はビジョン型とは対照的に、徹頭徹尾、「人のため」に行動します。炭治郎は家族を鬼に惨殺され、たった一人生き残った妹の禰豆子は傷口に鬼の血を浴びたせいでみずからも鬼になってしまうのですが、炭治郎の目的は鬼への復讐よりも、禰豆子を人間に戻すことにあるのです。
鬼と戦っていく中でも、ひたすら人を救うことを一義に置く炭治郎は、「利他的」であり、「共感型」です。『ワンピース』が利己的というわけではありませんが、個人の目標を達成するために自分が中心となって活躍するルフィと比べると、炭治郎はとても利他的であり、他者への共感力にあふれています。これが、女性にもファンが広がった最大の理由だとみています。
また、「これを達成するぞ!」というビジョン型は、ビジョンに賛同する人を惹きつけられればうまくいくけれど、ひとつ間違うと「勝手にやれば?」となってしまう。現代のように先の見えにくい時代にはとくに、「ビジョン型」よりも仲間と一歩ずつ進む「共感型」のほうが支持されるのかもしれません。
人の役に立つことがしたい
共感の対象は仲間だけに向かうとは限りません。いままでのアニメであれば、敵を倒したあとはスカッとした余韻にひたっていればよかったのですが、『鬼滅の刃』では鬼自身の後悔や深い悲しみに対して、炭治郎がいちいち共感します。さらに映画のクライマックスでは、中心的な登場人物が究極の利他的な行動をします。そのシーンでは、映画館のあちこちからすすり泣きが聞こえてきました。
いまの若い人たちと話していると、仕事でも普段の生活でも、「人の役に立つこと」を大事にしていることに気づきます。上の世代はそこに偽善や照れを感じがちですが、若い世代は「人の役に立つことをしたい」とまっすぐに言い切る。彼らにとって、炭治郎をはじめ登場人物の利他的な姿は、とても感情移入しやすいものだったのではないでしょうか。
殺伐とした時代に染みわたる本当のやさしさ
『鬼滅の刃』は鬼との闘いを描く作品ですから、血も流れるし残酷なシーンもあります。しかし特にテレビアニメシリーズを見ていると、なぜか毎回すごくほっとする気持ちになる。ちょっとしたギャグだけでも、とても癒やされるのです。
今の世の中は「不寛容の時代」と言われるように、少しでも落ち度があった人を徹底的に追い詰めるところがあります。コロナの「自警団」などもそうですし、マスクをしていないというだけで白い目で見られるなど、ルールを守らないやつ、非常識なやつは問答無用で叩いていいという風潮がある。
一方で、炭治郎は本当に寛容度が高く、敵に対してさえも、「そうだよな、人には事情ってあるしな」「そうせざるを得ない、何かがあったかもしれない」と、隠された背景に思いを馳せることができる。自分を刺した人間ですら、「鬼に操られていたのだから仕方ない」と言って助けようとするのです。
殺伐とした世の中だからこそ、人々のあいだには温かい思いやりに対する飢餓感があった。だからこそ炭治郎の思いやりが、人々を惹きつけるのかもしれません。思いやりというのは日常で言葉にすると白々しくなりますが、この物語では、「死」というものと常に対面しているからこそ、それが際立つのでしょう。
私たちも、新型コロナウイルスの流行によって「死」を意識する機会は増えたといえます。若い人たちはコロナに感染しても重症化しないといわれていますから、特に死が身近になったわけではないけれど、それでも普段よりはなんとなく、死というものが意識される。そういう状況にあって、人のためにがんばる炭治郎の姿に、私たちは救いを感じるのかもしれません。
落とし物を拾っていくような仕事も必要
多くの人々が、共感型、そして利他的な価値観を求める時代ということは、マーケティングだけではなく、リーダーシップの在り方にも大きな示唆を含んでいます。
ビジョン型のマネジメントでは、達成感の共有はあるけれども感情が挟まる余地がほとんどありません。欧米型の男性的なリーダーシップの在り方と言えます。「あそこを目指すぞ! オー!」と、前しか見ずに進んでいってしまいがちで、そこについてこられない人や、見落としているものに気づく余裕はありません。現代のプロジェクトにおいて、社内外のさまざまな人材がそれぞれの都合や背景を背負いながら仕事をしていく場合、他者に共感し、目配りをして落とし物を拾っていくような優しさがあって初めて、地に足がついたプロジェクトになるのではないでしょうか。私はその意味で、男性的リーダーシップと女性的リーダーシップが半々であったほうが、プロジェクトはちょうどうまく進むと考えています。