さまざまな制度を駆使して、働きながら娘をケア
お腹にいる子どもの異常を告げられたのは妊娠27週目のときだ。骨が曲がっていることがわかり、お腹が大きくなるにつれ、肋骨や大腿骨に変形が生じていく。「お腹の子は私が守っているんだから、絶対大丈夫」。山田さんはそう信じるしかなかった。
帝王切開での出産になり、医師から新生児死の可能性も伝えられる。あまりのショックに気も動転したが、覚悟して迎えた当日、術後に聞こえたのは赤ちゃんの泣き声。「生きてる!」と嬉しくて、その頬に触れたときに初めて涙がこみあげたという。
「萌々華」と名づけた愛しい娘。だが、NICU(新生児集中治療室)に入ると、抱っこや授乳もできない。病名は「骨形成不全症」。骨がもろくて弱いことから折れやすく、骨の変形や呼吸機能障害などをきたす先天性の難病だ。治療法もなく、骨折を防ぐ薬を投与し続ける。生後8カ月でようやく退院できることになったが、「NICUで先輩ママから『仕事は絶対できないわよ』と言われたんです。でも、生まれた子にたまたま病気や障がいがあるというだけで、母親も仕事ができなくなるのは納得がいかず、何か方法があるんじゃないかと思い悩みました」。
区役所に勤める山田さんは公務員のため子どもが3歳になるまで育休を取れる。その間は育児に専念しようと決めた。娘はベビーベッドで過ごすが、骨がもろいため抱き上げられない。おむつを替えるのも骨折の痛みで泣き叫び、泣くとすぐチアノーゼが出るので、とにかく泣かせないようにと神経をすり減らす。栄養は鼻から注入し、24時間の酸素吸入が欠かせない。夜中もいつでも起きられるようにソファで仮眠する生活が続く。
ずっと寝たきりの娘がかわいそうで、ベビーカーに酸素ボンベを積んでは、毎日のように近所を散歩した。
「萌々華はいつも上を向いて寝ているので周りが見えません。だから、『ワンワン来た』『電車に乗る』とか、どうやって言葉を覚えるのだろうと心配で、よく話しかけていました。すると『おかあさんといっしょ』を見ていた娘は最後の挨拶の場面で、『バイバイ』と。そこからペラペラしゃべりだしました」
できれば保育園で同じくらいの子たちと過ごさせたいと思う。だが、医療的ケアが必要な子を預けられる場所はなかった。育休終了も迫り、インターネットで必死に探していたら、ベビーシッター希望の看護師の女性にたどりつく。職場では小学校就学まで短時間勤務が認められ、彼女に半日見てもらうことで復帰できた。
仕事を辞める選択肢はなかった
娘が4歳になると地域の子ども園へ入園がかなうが、集団生活で風邪をもらっては入退院を繰り返す。その秋には肺炎で呼吸不全に陥り、気管切開して人工呼吸器を装着することに。それでも仕事を辞める選択肢はなかったという。
「たぶん仕事をしていなければ、精神的にもたなかったと思います」
プライベートでは「萌々華ちゃんのお母さん」として頑張るけれど、職場では「長島(旧姓)」の自分に切り替えられる。そこでバランスを保っている気がすると漏らす。
「もし仕事を辞めたら、いつかきっと後悔する。この子のせいで辞めたと悔いたら、娘に申し訳ないという気持ちもありました」
しばらく介護休暇をとって付き添い、小学校就学とともにフルタイム勤務に復帰。特別支援学校でも人工呼吸器の子は親の付き添いが必要で、やむなく自宅での訪問教育を頼む。痰の吸引ができるヘルパーを探し、在宅で見てもらうことになった。
娘を小学校に通わせたいという思い
「本当にいつも綱渡りで……」と朗らかに振り返る山田さんだが、娘を小学校に通わせたいという思いは切実だった。訪問教育は週6時間で知的発達に遅れがない娘にはとても足りず、なにより同じ年頃の友だちと交流させてやりたかった。特別支援学校の児童は地域の小学校で交流できる機会もあるが、大勢のクラスにぽんと1人で入れるのはつらい。子どもたちに囲まれると、圧倒されて何も話せなくなる娘が不憫だった。
「やっぱり強い子になってほしいんです。今は受け入れ先がなく、娘も人の多いところには行きたがらない。でも、将来を思えばいずれ外に出ていかなければいけないんですよね」
山田さんは医療的ケア児の就学を支援する活動に取り組んできた。萌々華さんも「私ががんばれば、みんなが学校へ行けるようになるね」と言ってメディアや行政への陳情の場で自分の思いを伝えてきた。しかし、現状はいっこう変わらず、「学校へ行かせてください。お願いします!」と健気に訴える娘を見ていると胸が痛む。そんななか、2020年4月から東京都の特別支援学校ではガイドラインに沿って、人工呼吸器の子どものケアが始まることになった。小学6年生になる娘のために、何とか通学を実現しようと思い立った。
実際に受け入れ体制が整うには数カ月かかり、それまでは自分が付き添わなければならない。仕事も休まざるをえないが、学校へ行く夢がかなうのであればと覚悟を決めた。
「子どもにとっても、親がずっとそばに付いているのがいいとは思わない。娘は私が仕事へ行くときも『行かないで!』とぐずったことが1度もないんです。『行ってきます』と言うと、『行ってらっしゃい。気をつけてね』と送り出してくれる。本当だったら、私が『行ってらっしゃい』と送り出したいのですが」
娘とともに歩む日々ではさまざまな壁にぶつかり、闘い続けてきたが、「まあ仕方ないじゃない」と明るい娘に助けられてきたという。今は萌々華さんも好きな音楽を楽しんだり、座る練習を始めたり、ひとりの世界が少しずつ広がっている。いずれは自分がやりたい仕事を見つけ、外へ羽ばたいてほしいと願う。そのためにも、どんな状況でも仕事を続ける母の姿を娘の記憶に刻みたいのだと、山田さんは明るく語った。
地方公務員として区役所に就職。現在は、区役所の出張所で窓口業務を担当。結婚8年目に長女を出産。仕事のかたわら、全国医療的ケア児者支援協議会理事も務め、医療的ケア児でも通園・通学できる制度を実現すべく、国や地方自治体に働きかけている。