ニューヨーク近代美術館に勤務した経歴を持ち、フリーのキュレーターとしても活躍する作家の原田マハさん。彼女が生み出す小説は私たちに、まるで名画に出合ったときのような余韻を残してくれます。真骨頂である「アート」をテーマにした小説『常設展示室』(新潮社)は、6人の女性を主人公にした短編集。彼女たちは、美術館やギャラリーなどアートの世界でそれぞれの仕事にまい進する毎日で、人生を左右する出来事に遭遇します。それは、自身の体の異変であったり、遠く離れた故郷に住む父親の死であったり、昔生き別れた兄弟との思わぬ再会であったり……。そしてそのとき、ある絵画が、6人の人生にシンクロしていくのです。
原田マハ『常設展示室』(新潮社)

6人女性たちの人生に介在する、1枚の絵画

美術館を訪れるとき、人が胸に携える思いはさまざまだろう。純粋に作品を楽しみにやってくる人もいれば、静かに心を落ち着ける空間を求めて訪れる人もいるかもしれない。あるいは、さしたる興味はないが、たまたまチケットを手に入れたので何となく足を運んだというパターンもありそうだ。

きっかけやモチベーションがどうあれ、1枚の絵画に秘められたポテンシャルは、ときに観る者の感性を大きく刺激する。その作品にふれることで感動や勇気をあたえられたり、それが描かれた背景に思いを馳せたり。

本作『常設展示室』(新潮社)に登場する6人もまた、いずれも人生の大切な一幕に1つのアートが介在したことが、運命に影響を及ぼした女性ばかり。世界各地の美術館、あるいは美術に関わる舞台で展開する6つの物語は、あたかも展示作品を次々に眺めていくような感覚で、読み手の胸を通り抜けていくにちがいない。たとえば――。

日本人である自分には遠い存在と思われたメトロポリタン美術館で、幸運にもキュレーターの職を得た美青。35歳にして恋人もつくらず、時折届く親からのメールにやや心を痛めながら、ニューヨークの競争社会に揉まれる日々の中、突然、彼女の身をある異変が襲う。ピカソの『盲人の食事』に込められた意図とシンクロする、美青の決意とは……(「群青 The Color of Life」)。

大手ギャラリーで営業部長を務めるなづき。世界中の富豪を相手に、億単位の取り引きをまとめる仕事に夢中になるあまり、結婚もしないまま40代半ばを迎えた彼女の懸案は、施設に収まる年老いた父親の存在だった。身の回りの世話は弟のナナオに任せがちであったが、いよいよ父が最期を迎えたとき、ぽっかりと穴の空いた心に蘇ったのは、フェルメールが描いた『真珠の首飾りの少女』だった(「デルフトの眺望 A View of Delft」)。

美貌の美術評論家として、旧態依然とした日本のアート界で八面六臂の活躍を見せる翠には、ワケありの出自があった。あるとき、芸術大賞の選考の席で出合った1つの作品に、彼女は不思議な感覚にとらわれ、心を奪われてしまう。それは彼女にとって、ふとした瞬間に心に蘇る、忘れられない情景を想起させるものだったからだ。1枚の水彩画がもたらした、思いがけない過去との邂逅とは!?(「道 La Strada」)。

仕事に追われる毎日で、何かを置き去りにしている

アートシーンでそれぞれに奮闘する彼女たちは、職務に邁進する一方で、30代、40代の女性としての人生を生きており、生活や家族に関する問題と対峙してもいる。ここに、本作の大きな共感ポイントがあるはずだ。

アートに関わる仕事は、たいていの読書諸氏にとって縁遠いものだろうが、仕事の激流に流されるうちに、何かを置き去りにしてしまったような感覚は、誰しも共通のものだろう。もしかするとそれは、深い悔恨を思い起こさせるものであったり、痛いところを突かれる気分に近いものかもしれない。

そんな、心の奥深くに眠っていた記憶や情感を呼び起こすきっかけとして、また、人生の岐路にある主題にシンクロさせるものとして、本作では6つのアートが巧みに配されている。

タイトルにある常設展とは、いわば企画展の対義語であり、行けばいつもそこにある展示のこと。趣向を凝らした切り口が用意され、大々的に宣伝される企画展と比べれば、地味な印象を持つ向きも少なくないだろう。しかし言葉を変えれば、いつでも観られるからこその安心感が常設展にはある。

その点を踏まえてページを繰れば、ここに所収された作品の多くが、遠く離れて暮らす家族の存在にふれていることは意味深い。いつでも会える親しい間柄だからと安心していては、流れ続ける時間の中で、いつか取り返しのつかない事態を迎えることもある。それは家族、故郷、健康、すべてにおいて言えることだ。ここに登場する6人の場合、そんな人生の岐路に、1枚のアートがあったわけだ。

キュレーターとしてキャリアを持つ著者

原田マハがつむぐ物語は、いつだって美しい。本作の読後に残る余韻は、名画にふれたあとの感傷にもよく似ていて、文芸もまたアートであることをあらためて実感させてくれる。

デビュー当初は、同じく小説家として名を馳せる原田宗典の実妹という素性にばかり注目が集まった原田マハだが、すっかり人気作家の仲間入りを果たした今では、そのアートに対する深い造詣は多くの読者が知るところである。大学で美術史を専攻し、新森ビル美術館(設立準備室)やニューヨーク近代美術館に勤務した後、フリーのキュレーターとして活躍した彼女のキャリアはなかなかに華々しい。

そして2005年、『カフーを待ちわびて』(宝島社文庫)で第1回日本ラブストーリー大賞の受賞者として、颯爽とデビューを飾った作家・原田マハ。出自こそ恋愛小説ということになるが、フランシスコ・ゴヤの作品、『着衣のマハ』『裸のマハ』から採られた筆名からして、アートこそ自身最大の武器と、当初から腕を撫していた様子がうかがえる。

作家としてのキャリアも順風満帆で、12年に山本周五郎賞を、17年に新田次郎文学賞をと、順調にタイトルをコレクト。さらなるビッグタイトルもすでに射程に捉えているといっていい。

日本だけでなくフランス・パリにも拠点を持ち、ルソー作品の真贋に迫るプロセスをミステリー的手法で描いた『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)を執筆した際には、わざわざルーブル美術館の隣にアパートを借りて住んだという逸話もある。アートへの深い造詣も含め、もはや彼女でなければ描けない世界があることは疑いないところだ。

美術の世界から文芸に越境してきた異能の筆は、今もなお、多くのアートから得た感性を血肉としながら、精力的に作品を送り出しつづけている。小説だけではない。世界各地を取材してまわった紀行エッセイや、そこで食したグルメエッセイなどを読むにつけ、原田マハがいかに楽しげにこの世界をサバイブしているかがうかがえる。

1枚のアートに勇気づけられることがあるように、原田マハの文章によって明日への活力を得る読者も少なくないのではないか。その手始めとして、本作『常設展示室』はうってつけだ。

友清 哲(ともきよ・さとし)
フリーライター
1974年生まれ。旅・酒・文芸を中心に活動中。主な著書に『この場所だけが知っている 消えた日本史の謎』(光文社知恵の森文庫)、『作家になる技術』(扶桑社文庫)、『一度は行きたい戦争遺跡』(PHP文庫)、『物語で知る日本酒と酒蔵』『日本クラフトビール紀行』(ともにイースト新書Q)、『怪しい噂 体験ルポ』『R25 カラダの都市伝説』(ともに宝島SUGOI文庫)ほか。