育児、介護、家族の病気――。「制約のある働き方」を疑似体験する研修が、社員の意識を大きく変えた。
食品業界では取引先との関係を築くため、長時間勤務ありきのワークスタイルがまだ残っているが、キリンでは2年前からテレワーク申請者が増え、誰もが「早帰り」できる風土に変わりつつある。

男性も巻き込み、全社展開した改革の中身

「上の子が小学生になったので、4月から7月末までの4カ月間、9時半~16時半の時短勤務にしていました。『小学校に上がると急に環境が変わるから、子どもが不安になりやすいよ』と先輩ママたちからアドバイスされて申請を決めたんです」

キリン経理部で財務を担当している荒木紀子さん(入社13年目)は、7歳と4歳の子どもの母親だ。経理部は四半期ごとの決算期には多忙を極め、かつては22時以降の深夜業務をこなすこともしばしばだった。だが今は、会社の制度をフル活用して、仕事とプライベートを両立している。

「子どもの発熱や病気で呼び出されても、家のパソコンで仕事ができるので、帰宅前に、同僚に仕事をお願いしなくてもよくなりました」

キリングループの主要各社では近年、短時間勤務の選択肢や利用期間が拡大している。その端緒となったのが、2016年11月と12月に導入された、スマートフォンによる決裁承認と、私物パソコンからの社内ネットワーク接続サービス。在宅勤務はもちろん、移動中も仕事を進められるようになった。

早帰りした日の翌朝は「昨日はごめんね。どこまで進んだ?」と同僚に謝ってばかりいたが、その気まずさもほとんど味わわずに済んでいる。

繁忙期でも22時にはオフィスが無人に

17年以降は、Web会議システムが導入され、4月に「コアタイムなしのフレックス制」が開始。さらに働きやすさは向上した。

キリン 経理部 グループ財務担当 荒木紀子(のりこ)さん

従来のコアタイム(11時から15時まで)が撤廃されたことで、午後から自宅に戻り、パソコンでWeb会議に参加し、保育園のお迎えに行く――といったこともできる。時短との併用も可能だという。

「とはいえ、忙しい時期の時短はやはり後ろめたくて、当初は申請するのに勇気がいりました」と荒木さんは打ち明けるが、最近は育児中の社員に限らず、一人一人が効率化を意識しながら仕事を回すようになり、決算期でも22時を過ぎるとオフィスはほぼ無人になる。

「長時間労働を減らしていくのはいいこと。深夜近くまで働くと、集中力も続かないですから(笑)。ただ、経理部では書類やハンコが必須の業務もあって、まだ工夫の余地はあると思います。最近は、他社の経理部門の働き方改革の話をヒアリングしに行って、さらなる効率化を進めています」

従来の制度を大幅に見直し、新たな施策を次々と打ち出しているキリン。その狙いは、どこにあるのだろうか。キリン人事総務部長の藤川宏さん(入社32年目)は言う。

「働き方改革は、経営としての意思決定。昔のやり方ではお客さまの満足は得られない。働き方と仕事の与え方を変え、労働時間を短くする。結果、社員の多様性が活かされ、生産性の向上につながると考えています。育児や介護など、人によって制約もさまざまなので、マネジメントも多様にならないといけない」

ビール会社はかつて「男社会」だった。取引先の飲食店が夜遅くまで営業しているという事情もあり、長時間勤務を容認する“昭和のカルチャー”もまだ残っている。キリンでも、営業に配属される社員のうち、女性は1割程度。育児をしながら外勤の営業職を続けている女性はごく少数だ。

「仕事は楽しいし、活躍もしたいけど、ママになっても営業が続けられるの?」

そんな危機感を持っていた営業職の女性たちが、「なりキリンママ」という試みを提案した。上司や同僚も巻き込むことを想定し、彼女たちは3つの目標を掲げたという。

1 自分たちで「営業ママ」を仮想体験してみる(当事者)
2 上司にもどういうマネジメントが必要なのか体感してもらう(上司)
3 同僚にも営業ママがいるチームを体験してもらい、そこから得たヒントを組織の運用に活かす(同僚・組織)

キリン 人事総務部長 藤川 宏さん

この実証実験は大反響を呼び、「なりキリンママ・パパ」という研修制度として全社展開されることになった。子育てが終わった世代や、子どもがいない社員向けに「親の介護」と「配偶者の看病」という設定も追加された。対象社員には、家族や子どもの急病など、緊急事態を知らせる電話が前触れなしにかかってくる。

「なりキリン」は18年2月から6月にかけて一部の内勤部門と営業部門で実施され、このうち4分の3が男性。管理職では5割が経験した。

「弊社のイノベーティブな女性たちから提案されて、私も親の介護を体験してみたんです」と藤川さん。

「普段は朝7時出社なのですが、9時から17時半で働くというだけで見える景色がまったく違う。朝、駅に向かう途中、子どもを保育園に送っていく男性を見たときは新鮮でした。呼び出しの電話は、組合との交渉中にかかってきて、ひやりとした(笑)。制約を抱えながら働く人の気持ちが初めてわかりました」

残業が減ると、手取り収入が減ってしまうという問題もある。報酬体系の見直しはあるのだろうか。

「確かに、残業代を生活費の一部と考えている人もいる。そこは今後、検討すべき課題ですね」と藤川さん。

「ただ、削減した残業代はプールするのではなく、社員の自己啓発などに投資していきたい。リーダーには『人材育成が最優先事項。今日1本売るより、数年後にもっとたくさん売ることを考えてほしい』と言っています」

「定時退社」をきっかけに仕事のやり方が一変した

取引先との関係が業績に直結する営業部門では、「なりキリン」をどう受けとめているのだろうか。

(左)キリンビバレッジ 広域開発営業部 営業担当課長 吉良(きら)雅之さん(右)キリンビバレッジ 広域開発営業部 営業担当主任 佐々木絢子(じゅんこ)さん

「いやー。結構しんどかったです」

吉良雅之さん(キリンビバレッジ営業本部課長・入社10年目)は、4月に「なりキリンパパ」を体験し、久しぶりに定時退社したという。

営業先から帰社するのが16時頃。そこから3~4時間、内勤の仕事をこなすのが常だったが、17時半退社となると、残りはたった90分。

「一番苦労したのは、資料作りの時間を捻出することでした。直行直帰を多用したり、移動時間が短くなるようアポを調整したり。アポの合間の隙間時間も使いました。訪問件数を落とすと翌月の成果に響くので、アポ1件にかける時間を短縮するために事前に資料を送ったり、メールを電話に変えてコミュニケーションの方法を工夫しました。おかげで、時間感度が上がりましたよ」

呼び出しの電話は3週間目の朝9時。取引先に向かう直前だった。「えーっ!」と思わず声が出たが、「なりキリン」ではよほどの緊急事態でない限りルール厳守。先方に謝り、すぐに帰宅した。この担当者とはプライベートな話もするほど親しい間柄で、快く受け入れてもらえたという。

「定時に帰った日は、妻に指示されながら、掃除や洗濯をこなしました。家事はダメ出しされましたが、家族の時間が増えたのはよかった。長男が喜んで出迎えてくれるんです」

5月に第2子が誕生した吉良さんにとって、「なりキリン」はいい予行演習にもなったという。「本当に共働きだったら、分担や業務調整をもっと真剣に考えないといけないんだなと、考えさせられました」

「同期の女性が育児中なので、ママの事情は理解しているつもりでした」と話すのは、吉良さんの後輩・佐々木絢子さん(入社7年目)。「なりキリンママ」を体験して、「2割くらいしか大変さがわかっていなかった」と痛感したという。

「『帰りたい』と『帰らなければいけない』では全く違うんですね。定時退社でも仕事量は同じなので、まず仕事のたな卸しから始めました」

緊急度をもとにTo Doリストに優先順位をつけ、仕事の種類分けをした。結果、「仕事を終わらせる最短ルートは?」と常に考える習慣ができたという。

「アポの取り方も、1日1件ずつより、週1~2日で5件をこなし、残りの日は内勤に集中するほうが効率がいいこともありました。取引先への返事も、17時半までにしなければいけないので、決断する勇気が持てた。わからないことは上司や先輩にすぐ聞きました。悩む時間が減った分、考える時間が増えて、生産性は確実に上がりました」

キリンビバレッジ 広域開発営業部 営業担当部長 岡田俊治(しゅんじ)さん

今は仕事のことをいろいろ吸収したい時期。早く帰るのはもったいないという気持ちもある。

「でも先月結婚して、いつかは私も同じ状況になるかもしれない。今回の体験で、やろうと思えばできるとわかってよかったです。女性だけが悩むのではなく、みんなが早く帰ろうと思うようになればいい」

吉良さんと佐々木さんの上司、岡田俊治さん(入社28年目)は、「なりキリン」の導入にあたり、まずメンバー全員とこのチャレンジの仕組みや目的を共有した。

「部署内には、1歳半の子どもがいる『まじキリンママ』もいるんです(笑)。みんなに彼女の大変さを味わってもらうとともに、業務をどうやって圧縮するか、知恵を出し合うきっかけになった。予定や提出物はアウトルックで共有しているので、僕は『これ大丈夫か?』とこまめにリマインドするようにしていました」

意外だったのは、「なりキリン」社員以外の社員の働き方にも影響があったことだ。

「夕方以降、だらだら残るメンバーが減りましたね。僕も極力、早く帰るようにしているので、相談も午前中に持ち込まれるようになった」

いつでもメンバーの悩みを聞けるよう、遅くまで残って待機――。そんな「理想のリーダー像」にこだわらなくても、マネジメントはできる。岡田さん自身も、過去の思い込みから解放されたという。

その変化に一番驚いたのは、岡田さんの妻だった。

「『パパ、最近やけに早く帰ってくるけど、会社は大丈夫なの?』と不安そうに聞かれたので、働き方改革の説明をしました。家内はキリンの元社員ですが、当時は結婚したら女性が辞めるのが当たり前でした。『私も残っていれば、もっと働けたかもしれないのに』と、うらやましそうにしていましたよ(笑)」

たった5人の女性社員の提案から始まった「なりキリン」プロジェクトは、女性だけでなく、男性の働き方を根本的に見直すきっかけとなり、ボトムアップから働き方改革を推進する切り札となった。

社内のあらゆる層で意識変革を進める一方で、今後は得意先や出入り業者の理解を幅広く得ていくことも課題となる。前例踏襲ではない新たな関係づくりが進めば、より強い改革モデルになっていくだろう。