おっちょこちょいが生み出した失敗
森島さんが味の素に入社した1986年は、ちょうど男女雇用機会均等法が施行された年。事務職採用で配属先は調味料部だった。
「9時と13時と15時には男性社員にお茶出し。どの人がどの湯飲み、コーヒーカップなのかを覚えるのが最初の仕事でした」
90年に総合職に転換するまで一般職だったが、新人の頃から育ててもらった感覚がある。
「最初は、数年働けるかな? くらいの気持ちでしたが、上司から『どんなに売り上げが小さな商品でもいいから、その商品の社長だと思って仕事をしなさい』と言われ、火が付きました」
「味の素(R)」や「ほんだし(R)」などを扱う主力部門で、「スパイス10」という商品のプロダクトマネージャーとなって開発から採算管理までを担当し、仕事の面白さを味わった。その頃の失敗は「おっちょこちょい」の性格が生んだもの。開発中の「まろみ(R)」の試作品をレシピを検討する部署へ送るとき、1度ならず2度も違うものを送ってしまったのだ。
「試作品の数が多かったので、つい……。2回目は上司にクレームの手紙が来て、『気をつけなさい』とやんわり言われました」
当時の仕事で印象深いのは、「それいけ!アンパンマンふりかけ」の開発。会社がキャラクターものを手掛けるのは初めてのことだった。
「経営会議メンバーから『NHKのキャラクターじゃダメなの?』と言われ、説得が大変でした」
森島さんは「子どもたちにとってのキャラクターの魅力が全然違うのに」と思いながら、消費者調査やオープンになっているキャラクターの訴求力データを見せて了解を得た。ところが……。
「私の上司と当時のアンパンマンの商標管理会社とが意気投合してしまって(笑)、ふりかけだけでなく、いろんな商品にアンパンマンを使ってほしいと話が大きくなってしまったんです」
自分の商品開発だけでも精いっぱいなのに、グループ会社にまで「アンパンマンを使ってください」とお願いして回ることに。
その後、93年に食品部に異動し、9年間のうち7年間はマヨネーズ、後の2年間はコンソメの商品開発を担当した。マヨネーズ時代にまたもや、おっちょこちょいが顔をのぞかせる。
「包装材にポリプロピレンと記すところがプロポリピレンになっていて、そのまま印刷し、全部刷り直しになって怒られました」
コンソメを担当していた2001年9月は狂牛病が社会問題になり奔走。急きょチキンを原材料にしたコンソメを開発する事態に。
「1月の新商品発表まで時間がなく物理的には大変でしたが、関係者全員に何とかしなければいけないという連帯感があり、チームワークで頑張れました」
嫌々なった部長だが大きなものを得ることに
02年に異動した健康事業開発部は、トップダウンでつくられた組織。さまざまな部門から7人が集められた。
「転職したくらいのインパクト。まず医薬やゲノム関連の部署から来た人たちの話している言葉がわかりませんでした。助詞しか日本語じゃないみたいで(笑)」
新しい事業部では「健康ビジネスって何をやるの?」とゼロから考え、同社らしくアミノ酸の素材を使ったサプリメントを通販で売る事業を始めることに。
最初の商品は、ぐっすり眠りたい人のための「グリナ(R)」。7人とも通信販売事業の経験がない。誰が売るのかと思っていたら、部長から「お前が売るんだ」と言われ、通販のプラットフォームを立ち上げなければならなくなった。
通販広告は日々、目先を変えていくことが大事になるなど、今までの商習慣が通用しない。社内でも、財務担当者に代金が回収できないことがあるのを理解してもらえないなど苦労があった。
「11年に黒字化するまで赤字続きでしたから、いくら頑張っても結果が出ない時代が長かったですね。また部長になったときはプレッシャーで眠れず、メンタル面でやばいと思ったこともあります」
なりたくてなった部長でもない。健康事業開発部への異動とともに課長になったときは「嫌だったし悲しかったのを覚えています」。上司の役員昇進に伴い部長に昇進した際は、その上司に「役員と部長を兼任できないですか」とお願いして怒られたことも。
「でも、部長になってみると、メンバーがものすごくいとおしく思えました。こんな気持ちになるなんて、自分でも驚きでした」
通販事業時代に社内外の仲間と志を合わせて仕事をするすばらしさを実感。15年に執行役員になり、部下の数が20人弱から90人にまで増えた。「家庭用事業部は、多様な経験を持つ人がいる組織。各人が持てる力を存分に発揮する“しなやかで強い組織”を目指し舵取りしていきたいです」
Q. 好きなことば
ケ・セラ・セラ
Q. ストレス発散
登山
Q. 趣味
チェロ
Q. 愛読書
向田邦子、須賀敦子