水本さんが石川島播磨重工業(現IHI)に入社し、横浜にある技術研究所に配属されたのは1982年。均等法が施行されるのは4年後で、IHIも女性の技術職を採用していない時代だった。
「当時、横浜の技術研究所には約300人いて、女性は私一人。会社は女性用トイレと更衣室の設置からはじめたと思います」
IHIへの就職は、大学院で水本さんを指導してくれた先生の勧めだ。「IHIがすごく大きな風洞設備をつくったから、それをオペレーションする人間が必要になる。水本さん、行きなさい」との言葉を素直に受け止めた。
IHIの大型風洞は環境アセスメント向けの設備。発電所やごみ焼却炉を建設したとき、その建物や煙突が風の流れにどう影響を与えるかをシミュレーションする。学生時代から研究してきた分野だから、仕事は面白かった。「世界一の技術を目指そう」と、時には夜中まで研究に没頭した。ところが上司から「そんな仕様は要求していない。期限内に満足のいく結果を」と叱責(しっせき)された。研究者としてはベストを尽くすのが当たり前。でも企業ではQCDのバランスが大切だ。
「そのときは何を叱られているのかわかりませんでしたが、今はよくわかります」
どんな反対があっても信念を貫き通す
研究所時代は22年間続き、その後に大きい異動が待っていた。2004年のTX準備室室長就任だ。キャリアの中で一番の修羅場が訪れようとしていた。
TXは豊洲ネクスト・プロジェクトのこと。1年半後に本社や関連会社の従業員4000人が6週間かけて東京・豊洲の新ビルに引っ越す大移転計画。業務は一日も止められない。しかも、単なる引っ越しではなく業務改革を命じられた。移転費用をはじくとビックリする額になった。
「このくらいかかりますと担当の取締役に持っていくと、『半値以下に!』と怒られました(笑)」
お金以上に難しかったのが各部、各人の調整だ。それまで部ごとにオフィスが分かれていたが、今度はオープンスペースに変わる。そのため、広報室の隣には営業部が入り、情報が筒抜けになるので困るという苦情が入る。
管理職からは、今まで窓を背にしていた部長席を廊下側に移す計画に抵抗を示された。部下が廊下に出るときに顔を合わせることでコミュニケーションが取れる意図があったが、「みんな、偉くなって窓側に座るのを待ち焦がれていましたから、その楽しみを奪うプランだったんです」。
文書削減でも抵抗が激しかった。引っ越し前の1人当たりの資料を積み上げると、A4ファイルで12mもあったのを2mに減らすことを徹底。ほかに、「机が小さくなるのは嫌だ」「3階じゃ嫌だ」など、さまざまな利害との闘いが続いた。しかし水本さんは、コミュニケーションを促進し、機能的に働けるオフィスはどうあるべきかという原則を貫いた。
「自分がやっていることは正しいんだと思い込むようにしてました。そのうち、周りも『まあ、いいか』と言いはじめて(笑)」
流されず業務改革を成し遂げた水本さんだが、あとから総務部長にチクリと言われた。「どれだけ裏で支えたか。クレームは全部、こちらで抑えたんだぞ」と。
たった一つだけの後悔
本社大移転計画が無事終わり、さあ横浜に帰れると思った水本さんに、今度は経営企画部行きの切符が渡される。新事業企画グループの部長として、M&Aやベンチャーの育成を手掛ける仕事だ。
「世の中の流れを捉えて、自社がどの方向に進むべきかを考え、技術を経営に反映させる仕事です。面白かったですね」
その後は、人事部の採用グループの部長に。
「自分が採用した子たちが成長する姿がうれしくて。みんな自分の部下という思いです(笑)。各部門のトップが採用面接で出てくるので、そういう人たちと話せる機会が持てたのも収穫でした」
そしてCSR推進部部長を経て役員となる。
「会社が本気で私を役員に育てようとしたんでしょうね。女性活躍推進という言葉は好きではありませんが、風が吹いているから乗ったところもあると思います」
ただ、一つだけ後悔がある。博士号を取ろうと学校に通ったのに、途中で断念したことだ。
「TXプロジェクトのときはデータを見る時間もなくなり博士課程を中退しました。研究者として20年やってドクターを持っていないのはやっぱり恥ずかしい(笑)。自分を甘やかしたかなと思います」
博士号こそ逃したが、理系のキャリアは技術者を採用するときや、ものづくり会社での調達の仕事で大いに役立っている。
Q. 好きなことば
とくになし
Q. ストレス発散
趣味に没頭すること
Q. 趣味
音楽鑑賞、美術館めぐり、スキー、テニス、料理、旅行
Q. 愛読書
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