夫のアルコール依存が原因で離婚した立花香織さん。自分が3人の子どもを守るしかない。どん底でも諦めずに過ごした日々とは――。

3人の子どものために、自分が働いて家族を守る
●立花香織さん(仮名)53歳

3人の子どもたちを連れて家を出たのは38歳のとき。「離婚」という選択は悩み抜いた末の決断だった。

「それまでの生活を捨てる勇気もなければ、この先自分が本当に生きていけるか確信もなかった。私一人なら怖くて出られなかったかもしれないけれど、もう我慢の限界だったんです」と語る立花さん。

立花香織さん/大学卒業後、大手企業で秘書を2年間務める。結婚後3児の母となるが、十数年で離婚。ヘルパー職などを経て、46歳で化粧品会社を設立。

地方で呉服商を営む旧家の長男と結婚したのは、25歳のとき。嫁の務めを果たし、子どもたちも手をかけて育てたが、家庭の崩壊は夫のアルコール依存が原因だった。

ふだんは人当たりの良い夫も酒が入ると別人のように乱暴になった。深夜、泥酔して帰宅すると、寝ている妻をたたき起こす。そんな父親の姿を見て子どもたちも震えあがる。姑に話しても嫁の言葉を信じず、世間体も気にして、「あなたが我慢すればいい」と聞く耳を持たなかった。

酒に溺れ、夫の暴言もひどくなっていく。眠れぬ夜が続き、体重は30kg台まで減った。長男は中学生、下の2人は小学生で、精神状態も不安定になり神経症が始まった。

アルコール依存の相談機関へ行くと、「子どもを守るのが先でしょう」と言われ、家を出ることを決意。夜中のうちに車の中に学用品などを全部詰め、実家へ帰った。当座は手持ちの貯金で暮らしても、先の見通しがつかない。「もしパパと交渉が決裂して学費も止められたら生活保護になるかもしれない」と話すと、息子たちは「いいよ」と納得してくれた。

それでも、せっかく馴染んだ私立校を退学させるのは不憫で、夫には学費だけ払ってほしいと説得し、1年がかりで離婚が成立。あとは自分が働いて家族を守るしかなかった。

「私はずっと専業主婦だったから資格も何もない。ちょうど介護保険制度が立ち上がる頃だったのでヘルパー2級の認定を受け、老人ホームでヘルパーの仕事をしながら、とにかくいろんなことをやりました」

放送大学でカウンセリングの勉強をし、介護ステーションを立ち上げる仕事に就く。さらに職業訓練校でパソコンのスキルを身につけると、在宅でデータ作成の仕事を請け、大学で事務のバイトもこなす。その間もハローワークに通い、少しでもお金になるような仕事を探したが、

「どんなに働いても非正規なので時給が安く、いつ首を切られるかわからない。60代、70代になっても続けられる仕事を持たなければと考え、会社を起こそうと思ったんです」。

それでも何をしていいかわからなかったが、思いがけず起業の道が開けたのが無添加の天然化粧品だ。自身もアレルギー体質のため、子育て中に自然療法を学んだ立花さんは化粧水も手づくりしていた。原料に使う水の販売元に相談すると、そこの工場で製造してみたらと勧められる。アレルギーの子も使える化粧水を開発したいと、会社を設立したのは46歳のとき。一人で地道に販売しながら、エステの技術も身につけた。

化粧水は口コミで人気を集め、美容サロンもオープン。その頃、新たなパートナーとも再婚。立花さんは、これまでの道のりをこう振り返る。

「綱渡りみたいな人生だけど、私の強みは何も持たなかったこと。資格や知恵もなくて、私にできることを考えたら、枠を狭めたかもしれない。でも、知らないことでもできるんじゃないかと思えたら、とりあえず飛び込んでみる。ダメなら違うことを考えればいいと開き直ったら、意外に道は開けていくんですね」

離婚後もしばらくは苦しんだという。子どもの学校では「あの人は没落した」と見られ、昔の裕福な生活とはほど遠い。どんなに頑張っても報われないむなしさも味わったが、今はこの仕事が楽しいと心底思える。

「最大のピンチは自分のステージを上げるためにあると思うし、どん底こそが人生を変えるチャンス。幸せは、お金じゃ買えないんですよ」

子どもには「顔が変わった」と言われる。ものすごく笑うようになったし、そんなママはステキだと。