実際には振動していない携帯電話が振動しているように錯覚する現象、“ファントム・バイブレーション・シンドローム”。「着信に対して神経質になっている時ほど経験しやすい」と言われ、仕事で電話をよく使う人や緊急の呼び出しがある人は、特に身に覚えがあるかもしれません。携帯電話は忙しく働く現代人の心を追い詰めているのでしょうか?

美しき休日に襲いかかる不安

連日の原稿締め切りの最後にラスボスクラスの大作を仕上げ、ようやく何も差し迫るもののない、ぽっかりと美しい空白をスケジュール帳に見つけた朝。ああ、“オフ”だ。

いみじくも晴れ渡る青空、半袖1枚で過ごせるような陽気。BGMにおシャンなボサノヴァなどかけちゃって、このところ体に気を使っていなかったし、とスムージー用に野菜やフルーツを切り、ミキサーをオンにした途端、足元からそこはかとない不安がじわりと体を上ってくるのを感じた。

「いいのかこんなことしてて。何か忘れていないか。何か締め切りや置き去りにした案件はないか。即レスすべきメールとか、本当になかったか? 誰かを待たせていないか? 怒らせてないか?」「私がこんなに安らかな気持ちや幸せな時間を享受していいはずがない……あとで何か大きなバチが当たるんじゃないか……どこかの編集さんから切羽詰まった電話がきて、全文書き直しとか食らうんじゃないか……クライアントにめっちゃ怒られたりするんじゃないか……」

そして思った。「……貧乏性だ」。ボサノヴァだとかスムージーだとか、不似合いなことするからいかんのだ。ヒマならいつも通りネット見て芋焼酎飲んどけ(朝だっつうの)。

哀しき貧乏性である。私などは大したことはしないし、できないけれど、それでもスケジュールに追われ続けるような緊張が終わった直後は、素直に緩めない。つかの間の幸せや安らぎさえも、何か苦労や苦痛とのペイオフになってしまっている。「まるで人生のファントム・バイブレーションだわ」そう思って、出来上がったスムージーをもしゃもしゃと飲んだ。意外とうまいもんだ。

本当は鳴っていない自分の携帯電話が、遠くでずっと鳴っているような気がする精神現象をファントム・バイブレーションという。携帯が鳴ったらすぐに出ろとブラックな意識付けをされている営業職の若手や、着信にすぐ出なければ人間関係にヒビが入るような学生世代、そして子供が37.5度を超える発熱をしたらすぐに保育園から呼び出しがかかるワーママにとっては身近な現象だ。それだけ常に携帯への注意をみなぎらせており、そして携帯の向こう側の相手や状況に縛られているのだ。

日本語では「幻想振動症候群」と訳されるファントム・バイブレーション・シンドローム。現代人を急かし、追い詰める“幻”とは……。

どうしてそんなに自分を責めるのか?

自分は自由であってはいけないような気がして、自由で幸せな自分に疑いを持つ。それは常に誰かに呼ばれているような幻聴の、ファントム・バイブレーションと同根かと思う。まぁ私の場合はそこまで深刻な話ではないけれども。ただ“ボサノヴァにスムージー”をやってみて不安になっただけだけれども。

例えば虐待やDVをあまりにも長い間受け続けて、そこから解放され自由になったはずなのに、自傷行為や転落を「自己選択」する、哀しき被害者たちがいる。いわゆるワーカホリック、あるいは「とにかく忙しい人」「賢いことでお金を稼ぐ人」「高度で緊張感のあるキャリアを続ける人」に、時々同じ精神状態を感じることがある。ベクトルが真逆なために、本人たちは「何バカ言ってんだ、一緒にするなよ」と一笑に付すだろうと確信するけれど。

「バカになれる」時間など1秒たりともない、常に高度な意思決定を求められ、ミスを犯せばたちまちその責任を厳しく追及されるキャリアを続けているがゆえに、休暇を自ら取ることができない、あるいはかろうじて取得した休暇でも何か生産的でクールなことで埋めねばならないとの強迫神経症にかかっている職業人がいる。

あるいは、とても真面目な性格、正義感の強い性格であるがゆえに、自分が社会的に比較的安定した場所にいてしまう償いとしての「社会的責任」を果たす――つまり「社会的道義にもとる不正義や弱者蹂躙(じゅうりん)のケースを、客観的に見て“無理やり”掘り起こしてでも世に問いつづけることで自らが世の役に立っていることを確認する」人々がいる。(特にSNSと、ジャーナリズムの一角と、夜の飲み屋に。)

その「きちんとしなきゃ」への焦燥感、使命感、「ちゃんとした社会人ならやんなきゃダメでしょ」「ちゃんとしないヤツらってなんなの、無能?」な感じは、あなたの耳元で鳴る、人生のファントム・バイブレーションだ。他人を責めているかのように見えて、どこかで実は自由な身分にいる自分を「自由でいるなんて怠惰だ」「このままじゃいけない」と、あなた自身が罰しているのだ。逃れられない、なんという不自由。いや、あなたはそのままで十分「ちゃんとしてる」人だよ……。これ以上、他人も自分も責めなくていいよ……。

……と、「あなた」に語りかけながら自分の怠惰を罰している、マゾヒスティックな小市民根性の私がいる。そうか、私こそがファントム・バイブレーションの囚人か。やっぱりスムージーに芋焼酎入れるかな。……おっと、遠くで携帯が鳴っているようだ。

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。