生きていれば誰しも、苦しい思いをした経験がありますよね。シルク・ドゥ・ソレイユ『トーテム』のアーティストで、キャプテン兼コーチの宮海彦さんは、20代半ばを「どん底だった」と振り返ります。今でこそ、穏やかなまなざしで語る彼は、何を、どう乗り越えてきたのでしょう?

悩み抜いて得た答えが好き

「アクロバットって物理学なんですよ!」自分の演目ではないアーティストの動きも、そういった観点で観察するという宮さん。力まない演技を心掛けている。

現在はシルク・ドゥ・ソレイユのアーティストで、出演演目「カラペース」のキャプテン兼コーチとして、多国籍のメンバーで構成されたチームをけん引する宮海彦さん。今でこそ自信に満ちあふれ、活躍する彼だが、大学で経営学を学び、海外青年協力隊の体操隊員としてパナマで2年を過ごした後、アメリカで体操教室のコーチをしていた頃は辛かったと言う。

「パナマでの任期を終えた後、アメリカ・サンフランシスコに渡りました。それまでの経験を生かして体操指導をしながら、英語の勉強と貯金をするのが目的でした」

スペイン語はパナマ時代に習得したものの、英語はまるっきりダメだったと笑う宮さん。どんな体当たりをして仕事を探したのだろう? 「とにかく体操教室を探して、就労ビザもないのに『雇ってくれ』と、中学生レベルの英語と、英語より得意なスペイン語で直談判しました(笑)。運良く10日で就職が決まったんです」

初めてのアメリカ。希望の職につけて、まずは順調なすべり出しだった。しかし宮さんは、まだまだ悩んでいたという。

「パナマからアメリカ時代、足掛け4年半くらいは悩んでいた時期。特にアメリカにいた頃はどん底でしたね。哲学書みたいな本ばかり読んでいました。悩んで、自分を疑って、本当の自分の価値観を見つけたかったんです。

でも、答えは出ませんでした。歴代の哲学者が一生かけて真理を追究するのですから。僕も生涯をかけて考えていけばいい、そう分かった時にやっと楽になりました。ただ僕は、悩んで悩んで得た答えの方が好きなんです」

そうしてトンネルを抜けた先に、「シルク・ドゥ・ソレイユ」があった。大好きな旅と、体操競技で培ったアクロバットの技術を生かせる舞台、そして何よりもシルク・ドゥ・ソレイユの美しい世界観が宮さんを魅了した。

ステージの冒頭を飾る、宮さんの出演演目「カラペース」。巨大な亀の甲羅をイメージした舞台装置を、宮さんたちチームが扮するカエルが元気に飛び跳ねるさまは、躍動感にあふれている。プロジェクトマッピングによる映像美も見どころだ。Photo: OSA Images Costumes: Kym Barrett (c) 2010 Cirque du Soleil

1歩を踏み出すことは、大それたことではない

シルク・ドゥ・ソレイユに入団するには、当然オーディションがある。世界各国から多数の応募があるという。

ステージの前後は入念に全身をほぐす。愛用のマッサージグッズは、2個のテニスボールをテーピングしたもの。すごい腹筋!さぞかしトレーニングを積んでいると思いきや、「余計な筋肉は必要ないから」と筋トレはしていないそう。

「応募用のビデオでは、体操クラブの片隅で、ニット帽をかぶって自己紹介して、創作ダンスを踊りました。パナマで覚えたメレンゲやサルサも踊ったかな(笑)。その後で体操のテクニックを披露したんです」

映像を送って2週間後、宮さんは、何千人もの応募者の中から“映像のみ、オーディションなし”で採用という、異例の入団連絡を受けた。

「アクロバティックディレクターがビデオを見て一目で『こいつがほしい』と言ってくれたそうです。あまり背が高いとダメなんですよね。舞台装置の制限もあるから」

どこまでも謙虚な宮さんだが、『トーテム』の演出家、ロベール・ルパージュも認める「ステージ・プレゼンス(存在感)」は、当時から群を抜いていたに違いない。

そうしてカナダ・モントリオールのシルク本社に合流したのが2009年。宮さんは、2010年に初演が予定されていた『トーテム』のクリエイティブ段階から、舞台制作に携わることになる。

「大学卒業以来、僕はやりたいことに向かって前進してきました。悩みもしましたけど、1歩を踏み出すことって、大それたことじゃないんです。これは若い人にも是非伝えたいと思います」

恥ずべきところのない、まっさらな人として

現在、宮さんは『トーテム』アーティストとして1人3役をこなす活躍をする一方で、自身の出演演目「カラペース」のキャプテン兼コーチとして、後進のアーティスト育成も担っている。

シルク・ドゥ・ソレイユは多国籍なアーティストたちの集団だ。それを1つにまとめるには、どんな気配りが必要なのだろうか。

「まずお互いの文化を尊重することです。僕らの場合は、同じゴールに向かって歩いています。そこが明確なので他のことで神経質になる必要はないんですね。僕自身、どちらかというと寛容な性格なのだと思います。

コーチとしては、どうしたら信頼されるか、ということをパナマ時代に学んだ気がします。誰から見られても恥ずべきところのない、まっさらな人として、いい人であるということは大切な要素かもしれません」

本番前、カエルのメイクに取りかかる宮さん。手順通りに、手早く仕上げていく。ロベール・ルパージュによる演出は、音楽、コスチューム(衣装)、振付など細部に至るまで美しさを追求している。化粧筆を持つ二の腕が……たくましい!

伝わらなくては表現ではない

高度な技を要求される舞台練習は、いくら身体能力のある人たちが集まっているとはいえ、想像を絶する。

「分からないことは何度でも聞きます。明確なビジョンがないと伝わらないし、振付が曖昧なときは『ここの振付の意味は? 何でこうしなきゃいけないの?』と、徹底的に演出家とコミュニケーションをとります。

時には自分のこだわりすら疑ってみます。演出家のリクエストを全て納得した上で、今度はそれを自分のチームで磨いていかなくてはなりません。観客に伝わらなくては、表現ではありませんから」

伝わらなくては表現ではない、というのは強い言葉だ。シルク・ドゥ・ソレイユというエンターテインメントの神髄がそこにあるのかもしれない。

「例えば、特に絵画に興味はないのだけど、ふらっと入った美術展で、1枚の絵に惹かれてその前から動けなくなってしまうことってあるじゃないですか。それが『伝わる』ということだと思います。僕らは伝わるように、伝えなくてはならないんです」

今回の『トーテム』が伝えるテーマは、「人類の進化」。しかし、宮さんたちの演技の芯にあるものは「変わらないもの」だ。

「人は変わっていきます。でも、その中で常に同じクオリティのものを見せる、変わらないものを見せるというのが、シルク・ドゥ・ソレイユの醍醐味だと思います」普遍的な驚きと感動。観衆の中でエネルギーを炸裂させていく宮さんのパフォーマンスは、今日もその変わらないものを伝え続けている。

特技は意外にも洋服作り。常にデザイン帳を持ち歩きアイデアを描き留めていく。旅のトランクの4分の1がミシンで占められていたことも!「古着を組み合わせてたり、創作って楽しいです」
宮 海彦(みや・うみひこ)
シルク・ドゥ・ソレイユ アーティスト。大学卒業後、2004年に青年海外協力隊員としてパナマに赴任。2009年にシルク・ドゥ・ソレイユに入団。『トーテム』ツアーショーは2010年4月から始まるが、その8カ月前から『トーテム』のクリエイションに携わり、(オープニング演目の)「カラペース」のキャプテン兼コーチを務める。トーテムのロゴマークの“T”マークは宮海彦さん。
森 綾(もり・あや)
大阪府大阪市生まれ。スポーツニッポン新聞大阪本社の新聞記者を経てFM802開局時の編成・広報・宣伝のプロデュースを手がける。92年に上京して独立、女性誌を中心にルポ、エッセイ、コラムなどを多数連載。俳優、タレント、作家、アスリート、経営者など様々な分野で活躍する著名人、のべ2000人以上のインタビュー経験をもつ。著書には女性の生き方に関するものが多い。近著は『一流の女(ひと)が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など。http://moriaya.jimdo.com/

ヒダキトモコ
写真家、日本舞台写真家協会会員。幼少期を米国ボストンで過ごす。会社員を経て写真家に転身。現在各種雑誌で表紙・グラビアを撮影中。各種舞台・音楽祭のオフィシャルカメラマン、CD/DVDジャケット写真、アーティスト写真等を担当。また企業広告、ビジネスパーソンの撮影も多数。好きなたべものはお寿司。http://hidaki.weebly.com/