「『乙武クン』5人との不倫」と週刊新潮に報じられ、妻と2人で謝罪文を出した乙武洋匡氏。彼の人間的魅力を知る河崎さんは、世間の男性たちの動揺ぶりに「強者・弱者とは誰か? をこれほど突きつけた出来事はかつてないのでは?」と指摘する。
 

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乙武洋匡『五体不満足』(講談社)。先天性四肢切断という「超個性的な姿で誕生」した乙武氏は「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」と話す。彼が早稲田大学政治経済学部に在席中だった1998年に発売されベストセラーになった。その後「完全版」と題した文庫版が出版されている。

乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)。多様性ある社会の実現を標榜する、リベラルの旗手である。障がい者を特殊なケース扱いして、別ものとして一人前扱いしないことは差別である、腫れ物のように扱うこと自体も差別である、さまざまな条件や文脈を背負った多様な人々がそれぞれに理解しあい、関わりあって心地よく暮らすことを可能にするノーマライゼーション社会の実現が理想であると、ずっと説いてきた人である。

その理念に私自身も深く共感し、ほぼ同世代の彼がここまで歩んできた道のりとそれを支える彼の哲学に曇りない尊敬を抱いてきたし、仕事でお目にかかったこともある。彼が多様性について語るのを傍らで涙しながら聞き、その記事を書き上げ多くの人に届けることもできた。

乙武洋匡氏はインテリで発言力も財力もあり、何よりも人心掌握に長けて大きな人間的魅力と驚くほど漲る色気のある男、まごうかたなき社会的「勝者」だと認識し、彼の身体的な特徴は乙武洋匡という稀に見る有能な人物の個性と私は理解している。それゆえに本人が最も唾棄するであろう「障がいがあることを理由とした腫れ物扱い」などせずに、思ったところを私なりにフェアに書かせていただく。

関係者間では暗黙の了解だったのではないか?

ご存じの通り、週刊新潮が乙武氏の不倫を暴露した。

週刊新潮(2016年3月31日号)中吊り

五股だかなんだかはプライベートなこととして私は驚かなかったし(むしろ乙武氏の人間的魅力ならば、さもありなん……と思ったほどだ)、当事者間の感情の問題が解決できていればそれは家族の中の話であって、乙武氏本人の社会的人格とは切り離して考えるべき問題なのではないかと感じている。

公表され酷評された「謝罪文」にあったように、もはや奥様も「私にも責任の一端」と書くほどの理解(あるいは割り切り)があり、介助兼秘書の方が"不倫"現場に第三者として同伴されていることもあったということで、もしやそれ(家庭外の関係)は関係者間で同意され、暗黙のうちに継続されてきた平和な解決・解消法だったのではなかったかと、見当違いも甚だしいかもしれないが、そんな憶測をしてしまうほどだ。

乙武洋匡という聡明な一人の人間にとって、その身体的な条件からやむを得ない“生理的な弱点”はずっと、彼自身と彼の人生を規定する大きく深刻な問題だったのではないか、そういうビルトインされた本質的な衝動を抱えて、彼はこれまでも生きてきたのではないか、そう思えるのだ。

父・乙武洋匡としての発言は本物だったはずだ

見当違いついでにさらに妄言を重ねさせていただくなら、しかしそういう葛藤や解決方法は、同じ状況や身体的条件を持つわけではない“健常者”たちにとっては"非常識"だとしか受け取られない。つまり障がい者のリアルで具体的な日常への想像力には欠けるが"倫理"は振りかざす一般社会には、まず理解されず、通用するわけもないと思われる。だから関係者間で申し合わせ、「不倫発覚→妻に懺悔→許し→夫婦で共に“謝罪”」という一般の“健常者”(何が健常で何が障がいだか、私個人としてはいまやそんな線引き自体に意味を感じないけれども)が理解しやすいストーリーにして、「子どもができて妻が母になったのが不倫の理由」「妻の私にも責任の一端」と、薄っぺらく白々しいまでに「妻が子育てに忙しくなり、夫の欲求に応えなかった」せいにしたのではないか、と私なりに考えた。

そうとでも仮定しなければ、理解できないのだ。「妻が母になってしまったから」。3人もの可愛い子どもをもうけて、一方の自分は父にならなかったなんてことがあろうはずがない。なぜなら、彼は多様性や社会の表面的でなく本質的な善悪の観念、そして人間のこころの機微に対してすばらしいバランス感覚を持った発言と著作活動をしてきたひとだから。子育ての当事者として、父としての発言が、それまでの教育者としての発言に深みを与え、多くのフォロワーの心を動かしてきた。「妻が母になってしまった」「責任の一端」との“謝罪”の言葉だけが、何だかものすごく異様な破綻を見せているのだ。

だからむしろ「いやー、もうオレ、性欲強すぎて、女ダイスキで大変っす。みんなオレのこと障がい者だと侮ってるけど、健常者さえも持ってないものを何でも持ってる勝ち組なんですよ? 町なかでチョー目立つのはもう仕方ないんで、開き直って遊びまくってました。二股も五股も十股も、こうなったらもう一緒でしょ? でも怒られちゃったからな~。世間にはさっさと謝って、あとは人の噂も七十五日でやり過ごして、早く念願の政治家になりたいですよ……」なんて、ネットで叩かれているような分かりやすくゲスい人間像でいてくれたほうが、よほどこちらの心が痛まない。

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件の週刊新潮が発売された3月24日、乙武氏は妻と2人で謝罪文を出した(クリックすると2人の謝罪文をすべて表示)。

男性たちの衝撃は相当大きかった?

さて、このニュースが走った時、社会“倫理”や当事者たちの感情などとはまったく別のところで、世間には無責任かつ興味深い動揺が広がった。これは乙武さんがまさにずっと身を呈して主張してきたことの具現化だと私は思ったのだ。

不謹慎と分かっていてあえて言うけれど、「乙武さんでもそんなにモテるのに……」という、男性の間の衝撃は甚大だったようだ。性的に満足しているということがどれだけオトコたちにとって大きな関心であり、お互いの勝ち負けを決める要素であるかというのが痛いほど感じられた。

そして、「障がい者にも『性』があるのだ」と“発見”した人々の動揺と拒絶反応といったらなかった。変な言い方だけれど、これほど本当の意味で社会に「多様性とは何か」「強者・弱者という区分けは一体何か、誰のことか」を突きつけたエポックメイキングな出来事は、他にないのではなかろうか。

「障がい者は聖人ではない」がこれまでの彼の主張の一部だったのだから、「才能も、障がいも、結構なエロも、どうしようもなく人間的に弱い部分も、全部ひっくるめて“乙武洋匡という人間”」ということにしてしまえばいいのではないかと私は思っている。でも、選挙への出馬が絡むとそうもいかなかったということ、なのだろうか……。

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。