笑福亭べ瓶と書いて「しょうふくてい・べべ」と読む。「べべ」とは関西弁で、かけっこなどで「一番最後になった人」の意味で、笑福亭鶴瓶の13番めで最後の弟子という意味でつけられた名だ。落語の世界に飛び込んで15年。3度の破門を乗り越え、今は大きな舞台で師匠の鶴瓶さんと親子会をするまでに成長したべ瓶さんだが、噺家としての人生は決して順風満帆ではなかったという。

落語家・笑福亭べ瓶さん(アイランドプロモーション所属)

落語よりメディアでの活躍に憧れて、鶴瓶の弟子に

ここ数年、落語が20~30代の人たちにも静かなブームになっている。『ちりとてちん』や『赤めだか』など、落語の世界を描いたドラマなどの影響もあるのだろうか。

江戸と上方でその成り立ちや形態に様々な違いはあるが、徒弟制度という点では同じ。歌舞伎の世界のそれと違うのは、歌舞伎では血縁が重視されるのに対し、噺家の徒弟制度はまったくの他人が弟子になるのがほとんどだということだろう。

べ瓶さんが笑福亭鶴瓶師匠の門を叩いたのは2002年のことだった。兵庫県の関西学院高等部から関西学院大学へ進学し、2年生になったばかりの頃だった。関西の人には理解できると思うが、偏差値も高く家も裕福だと想像できる学歴だ。

「鶴瓶さんに弟子入りしたい」

そう言い出した息子に親は大反対。「せめて大学を卒業してからではダメなのか」と引き止めたという。 

「その当時、僕はファミレスのガストでバイトをしていました。そこに榊さんというバイトリーダーがいて、その人に休憩室で相談をしていたんです。『大学を辞めて、好きな事をやろうと思ってるんです』『何をするの?』『落語家になろうと思ってます』と。すると榊さんが少し驚いた表情で、『誰の弟子になるの?』『鶴瓶さんの弟子になろうと思ってます』榊さんは『えっ!!』と声を出して驚いて『島谷君、僕の仕事を知ってて言っているの?』と聞きました。『えっ……バイトリーダーですよね?』『オレ、鶴瓶の弟子やで』。榊さんは、笑福亭瓶吾さんという、鶴瓶師匠の弟子やったんです。それを知らずに僕はずっと榊さんに将来の事を相談していたんです。『これは運命や!』と思って、入門を決意しました」

あんたのことはもう、死んだことにするわ

家出して大学の友達の家に居候しながら、鶴瓶さんの出演する落語会を調べ、楽屋口で出待ちして弟子入りを志願する。後日、鶴瓶さんから直接携帯に電話があり、喫茶店で1時間ほど話をした。

「話が終わった最後、師匠に『弟子にしたる。そやから、次会うときに親を連れて来なさい』と言われました。何カ月かぶりに家に帰って報告したんですけど、父親は断固として反対で、結局母親だけが行ってくれました。最後は『あんたのことはもう、死んだことにするわ』と言って付いてきてくれました。それで入門することができたんです」

噺家というのは、いつ身を立てられるか、将来の分からない仕事だ。稼げるようになっても、またダメになることもあるかもしれない。そんな浮き沈みのある世界に飛び込んでいこうとする息子のことを、親はどんな気持ちで見送ったのだろうか。

修行中の弟子の仕事は、掃除や荷物運び、車の運転など、師匠と奥様の身の周りのこと全般。しかも給料はゼロ。内弟子をとる噺家もいるが、鶴瓶一門は通いである。他の一門はその合間に落語の稽古をつけてもらう。ところが、鶴瓶さんは落語の稽古はしてくれなかった。

「うちの(鶴瓶)師匠も、師匠である6代目松鶴師匠に落語の稽古はつけてもらっていなかった。だから僕もあまり期待はしていませんでした(笑)。初めは落語をやりたいというよりも、師匠のようにメディアで活躍したいという思いが強かったんです」

落語への思いはまだ、彼の中では漠然としたものだったようだ。

弟子から師匠へ、永遠の片思い

無報酬で師匠を見て学ぶのみ。そんな師弟関係を、べ瓶さんはこんな風に説明する。

「師匠と弟子というのは、弟子からの永遠の片想いのような感じだと思います。ですが、いざ入門すると、両想いと勘違いしてしまう事が多々ある。けど、そうじゃない。本当のお父さんのように思って甘えてしまうと、間違いなくしっぺ返しが来ます、僕の場合は(笑)。師弟関係というのは、上司と部下よりは深いけど親子よりは浅い関係だと思うんです。いろんな時期がありましたけど、30歳を超えてから、それが心から心地良いと思えるようになりました」

3回の破門を経て……

べ瓶さんは3度破門になっている。

しかしこの「破門」という言葉は、言葉の強さから想像する「二度と戻れない」というものではないらしい。

「一門には弟子が13人いるんですが、師匠とそれぞれの弟子の関係というのは1対1やと思うんです。怒られない弟子もいれば、僕のように死ぬほど怒られる弟子もいる。毎日のように怒られてました。ある時、兄弟子に『おれがお前やったら、とっくにやめてるわ。』と言われたぐらいです。もはや何で怒られていたのか思い出せないくらいに怒られてました」

そんなある日の事だった。

「師匠を乗せて車の運転をしていたら、急に『おれがこんだけ怒ったらな、たいがいの奴は4、5日は引きずって暗い顔しよる。けどお前は次の日には普通にあいさつしてきよる。せやからお前は怒りやすい』と言われたんです。思わず『有難うございます!』と言ったら『褒めてへん!!』と怒られました(笑)」

師匠から幾度となく『辞めてまえ!』と言われても『すいませんでした!』と謝って付いていくのが、弟子になった者の定めだ。しかし、べ瓶さんは一度だけ師匠である鶴瓶さんに言い返してしまった事がある。

「あの時は、なんかもう自暴自棄でした。本当にこの仕事が自分に向いているのかどうか自信を失ってて、何事にも気が入らないからおのずとしくじりも増えて、その度に師匠からは怒られて。ある時『お前、もう辞め』と言われた時に、思わず『もう辞めますわ』と言ってしまったんです」

3度の破門の中で、自分から辞めたのは初めてだった。

「その時の師匠の怒り方は、尋常ではなかったです。その瞬間は気持ちが完全に切れているので、正直『ざまあみろ』ぐらいに思っていました。けど、日が経って冷静になるにつれ、何て事を言ってしまったんだ、してしまったんだ……と涙が止まらなくなりました」

自分から頭を下げて入門させてもらったのに、その師匠を何度も怒らせ、困らせ、挙げ句の果てには自分から去っていく。

「離れてから気付いたんです。怒られるのは確かに嫌やし、しんどいけど、怒るのはもっと嫌やし、もっとしんどいんや、と。子供の頃からよく、親や先生、近所の大人に怒られるような子供でしたけど、師匠と師匠の奥さん以上に、自分が大人になってからもこんなに怒ってくれる人は生涯いないやろな、と」

時間があればあるほど、弟子に戻りたくなった。テレビをつけたら、師匠が映っていた。とにかく忙しくしようと思った。

「思えば19歳からろくに仕事もせずに噺家の世界に入ったので、一度しっかりこの世界から離れて、ちゃんと仕事をせなあかんと思いました。昔から大型車が好きだったので、バスの運転手の免許(大型二種免許)をとりました。朝3時から12時まで築地の魚河岸で働いて、13~18時はペットショップで働いて、19~21時まで、東京案内のロンドンバスの運転手をしてました。忙しさに追われることで、噺家への未練から逃げていたんやと思います」

「べ瓶」に生まれ変わって、落語と真剣に向き合うように

破門になり1年が経とうとしたある日、同期の噺家から連絡があった。

「鶴瓶師匠が『あいつ、どないしてるんや』て、方々で言うてはるで。戻る気があるなら、ちゃんとコンタクトを取らなあかんのちゃうか、と。それを聞いて、いてもたってもいられなくなって師匠に手紙を書きました。今やっている仕事のこと。師匠に怒られてきた日々がどれだけ今の自分の糧になっているかということ……感謝の気持ちを書きました。戻りたくて戻りたくて仕方がなかったですが、やっぱり『戻してください』とは、よう書けませんでした」

数日後、師匠から電話がかかってきた。新宿の中華料理の店に呼ばれると、師匠夫人もいた。テーブルに座るやいなや、

「結論から言う。戻って来い」

「師匠と奥さんは、こっちの考えてることなんて何もかも全部分かってはるんや、と思いました。うれしい気持ちと申し訳ない気持ちで、涙が止まりませんでした」

メモ帳をビリッと破って、鶴瓶さんは「べ瓶」という名前を書いた。

「それまでは『瓶成』という名前やったんです。2011年12月30日、僕は笑福亭べ瓶になりました」

うちの師匠はホワイトタイガー、でも自分は違う

それからべ瓶さんは、落語に真剣に向き合うことになっていく。鶴瓶師匠のことを、その場にいるだけでみんなの注目を集める人気者、ホワイトタイガーに例えてこう話す。

「うちの師匠は、ホワイトタイガーみたいなものです。弟子になると、鶴瓶一門という目で世の中が見てくれるから、自分もホワイトタイガーのような気持ちになってしまう。でも、もともと違うんですよ。自分はただのトラで、全然白くない。むしろ、まだトラですらない。そこに気付くまで僕は8年ほどかかったという事やと思います」

笑いながら、そう話すべ瓶さん。やはり、ただ者ではなさそうだ。

森 綾(もり・あや)
大阪府大阪市生まれ。スポーツニッポン新聞大阪本社の新聞記者を経てFM802開局時の編成・広報・宣伝のプロデュースを手がける。92年に上京して独立、女性誌を中心にルポ、エッセイ、コラムなどを多数連載。俳優、タレント、作家、アスリート、経営者など様々な分野で活躍する著名人、のべ2000人以上のインタビュー経験をもつ。著書には女性の生き方に関するものが多い。近著は『一流の女(ひと)が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など。http://moriaya.jimdo.com/

ヒダキトモコ
写真家、日本舞台写真家協会会員。幼少期を米国ボストンで過ごす。会社員を経て写真家に転身。現在各種雑誌で表紙・グラビアを撮影中。各種舞台・音楽祭のオフィシャルカメラマン、CD/DVDジャケット写真、アーティスト写真等を担当。また企業広告、ビジネスパーソンの撮影も多数。好きなたべものはお寿司。http://hidaki.weebly.com/