経営者、政治家、主婦、会社員に学生まで。あらゆる人の装いをスタイリングするパーソナルスタイリスト。この仕事を日本で創出したパイオニアにとって仕事の神髄とは?

「一般の人」がスタイリストにトータルコーディネートをしてもらい、予算内で個性に合う服の選び方を教わる。この人がパーソナルスタイリングという仕事を創出する以前は、なかなかかなわない夢だった。装う人の長所を最大限活かし、場にふさわしく、さらに“ちょっと先の自分”を表現したスタイリングアドバイスで「人生が楽しくなった」と涙する顧客も数多いという。本人にとっても周囲にとっても「装いはギフト」と唱える。

「たかが服、されど服」のパワーを信じ、「装力」を伝えるため、時に暑苦しいほど(!)全力で仕事にまい進する日々だ。

パーソナルスタイリスト/ファッションレスキュー代表取締役社長 政近準子さん
よく笑い、よく話し、よく泣き、すこぶる面倒見が良い。目の前の人に全力で接するパーソナリティーも政近さんの魅力。「プロフェッショナルであること」も強く意識する。「パーソナルスタイリストの仕事は、装いを通じてお客さまの人生に関わること。時には、その方の人生の分岐点で並走するケースもあります。相当の覚悟が必要です」

母方の実家は呉服問屋、父はアパレル工場の経営者だった。物心ついた頃に父が工場を畳んだが、縫製工場などアパレル関連の親戚や知人が多く「おしゃれ」に理解のある環境で育った。生まれは広島県福山市。デニム生地の一大産地で、職人が多い備後地方という土地柄だ。振り返れば、服に人生を懸ける道筋は幼少時代から引かれていたのかもしれない。

アパレル企業のデザイナーを経て、イタリアへ渡る。暮らしながらモードを学ぶうち、一般の人のパーソナルスタイリングを手掛ける人々の存在を知った。TPOに合う装いを提案しながら、さりげなく顧客の話し相手にもなる彼らプロの仕事ぶりが印象に残り、パーソナルスタイリストを日本で始めようと志した。

帰国後に結婚、出産。会社を立ち上げ、これからというときに、政近さんを病魔が襲う。薬の副作用で肌がケロイド状にただれ、彼女はおしゃれの喜びを奪われてしまう。他人の視線から身を守るように、伏し目がちに生活する日々が続いていたとき、夫のひと言が転機になった。彼は、「自分が代わってあげたい」と涙をこぼしたのだという。

「自分だけがつらいと思っていたけれど、ふさぎこむ私と過ごす家族は、私以上につらかったんです。これではいけないと少しずつおしゃれを再開してみたら、気持ちがどんどん前向きになった。幸い、病気も快方に向かいました。私自身がファッションに救われた経験です」

苦い思い出もある。不治の病に倒れたモード学校の教え子のお見舞いに「病院という場にふさわしい」と思った地味な装いで出向いたときのことだ。

【写真上】顧客も未来のプロパーソナルスタイリストもこの扉の中に入ることから始まる。【写真中】政近さんの目印ともいえるつば広帽子。ハットの最高峰「ボルサリーノ」をはじめ、お気に入りがズラリ。【写真下】実は書道の腕前もプロ並み。お礼状や著書へのサインが達筆で、ファッショナブルな見た目とのギャップに驚く人も多いそう。

「彼は私が来ると聞いて、久しぶりにお風呂に入って待ってくれていた。それは、寝たきりの彼にとっていちばんのおしゃれ。彼はきっといつもの私らしくない地味な姿に、がっかりしたと思う。精いっぱいのおしゃれをしていくべきでした」

涙をこぼしながら話すその姿に、今も当時を思い出し、後悔にさいなまれる人情家の一面が見える。政近さんが「TPOにパーソンを足してTPPO」をポリシーとするのは、時に「その場にふさわしいファッション」は変わるからだ。病院という場に合わせるか、教え子の気持ちに応えるか。「装いはギフト」と考えれば、答えはおのずと決まる。

最初の顧客は弱視の女性だった。「自分だけでなく周囲のためにもおしゃれしたいと言われ、この仕事に確信が持てた」

現在、メディア出演や講演活動で「装力」を広く伝えながら、後進の育成にも力を注ぐ。厳しい指導についてくる後輩たちとともに、一人でも多くの人に、装いで人生を照らしてほしい、と願う。

 
政近準子(まさちか・じゅんこ)
1965年広島県生まれ。アパレルでデザイナーとして活躍し、イタリアへ渡る。帰国後の2001年、日本初の個人向けスタイリングサービス事業を始動。『「似合う」の法則』(ホーム社)、『一流の男の勝てる服 二流の男の負ける服』(かんき出版)など著書多数。http://fashion-rescue.com/