担当者を越えた営業で相手がカンカンに

業界の暗黙の了解を知らず失敗したこともある。入社6年目に出産し、産休が明けて新たに配属された先で官公庁を担当したときだ。それまでの志済さんの営業スタイルはトップダウンアプローチ。決定権のある上の人から攻める方法だった。ところが官公庁では下から順に話を通していく必要がある。

日本アイ・ビー・エム 執行役員 志済聡子さん

「通常では担当、係長を飛び越えて課長補佐と交渉することはあり得ないのです。何度かお叱りをいただきましたし、同業他社の営業マンからは『俺らは入社以来ずっとこのお客さんを担当しているんだ! 昨日、今日担当したIBMの女性営業さんとは違うよ』と言われたこともあります」

システムがダウンし、まずはお客さまのトップに謝らなくてはと出向いて怒られたこともあった。

「先にトップに報告して現場責任者の顔をつぶしてしまい、『出ていけ!』と怒鳴られました」

業界の習わしなど誰も教えてくれなかった。女性だから、外資だからと許してもらえたところもあったのだろうと、いまは思う。でも、“男社会の当たり前”で勝負しなかったからこそ大きな受注を得ることもできたと考えている。

40歳で初めて部下をもったときの失敗は大きかった。

ハードウェアからソフトウェアに部署が変わっても、前のやり方を持ち込んで押し付けてしまった。「なぜお客さまを説得できないの?」「もっと売れるでしょ」と。

多面評価で部下からのスコアが悪かった。上司からは「反省しろ!」と一喝された。

若いころ失敗が多くて「何かあれば自分のせい」と思う癖がついていた志済さん。素直に「私のどこが悪いの」とチームに聞いて回った。「数字、数字と言わないで」。チームから本音が出てきた。

「私もきつかったけど、メンバーもきつかったんでしょうね」

仕事の失敗より辛かった娘とのこと

行くところ行くところ失敗はついて回るが、それよりも辛かった経験があるという。ひとり娘が幼かった時の苦い思い出だ。

子どもが生まれた志済さんは、夫の実家のそばに引っ越し、義父母に食事から保育園の送迎まで全面的なサポートをしてもらった。

「嫁としては失格ですね(笑)。その代わり、口出しはしないように心がけました。世代差があるので食べさせたいもの、着せたいものは違いますが、それは言っちゃダメと心して」

入札前ともなれば夜遅くまで仕事が続く。義父母からは「1週間に1度、迎えに来ればいいから」と言ってもらい、預けっ放しのころもあった。おかげで仕事に没頭できたが、1週間後、娘を迎えに行くと、自分のことを忘れている。

「帰るよと抱き上げると大泣きされたんです。生まれて1年間、あれだけべったり一緒にいたのに、なぜ? と割り切れない気持ちでした」

それからは義父母の家のお泊まりは週に1日と決め、19時半にはオフィスを出るようにした。入札近くになると土曜日の夕食後、娘を夫に任せ、オフィスに行って朝まで仕事をし、始発電車で自宅に帰るという離れ業も編み出した。そんな状況が2~3年続き、「今がきっとどん底だから」と自分で自分を慰めたこともある。

「今だったら無理。あのときは体力があったんでしょうね」

それでも仕事を続けてこられたのは「営業には生涯忘れられないような達成感を味わえる瞬間がある」からだ。

「そういうときはもう、アドレナリンが出っ放しで。最初の経験は入社して1年3カ月後でした。先輩の転勤に伴って引き継いだお客さまから契約をいただき、その製品がトラックからお客さまの倉庫に移されるのを見たとき、とても感激しました」

目の前でいっぱいいっぱいになりながら仕事をする部下がいると、「あのときが営業として一番幸せだったと思えるときが来るよ」と心の中でつぶやいている。


■一問一答

 ■好きなことば 
自然体

 ■趣味 
ゴルフ、エアロビクス

 ■ストレス発散 
家では仕事のことは考えない、スポーツ

 ■落ち込んだときは 
「これ以上悪いことはない」と思う


Life Charts
志済聡子
1963年北海道生まれ。86年北海道大学法学部卒業後、日本アイ・ビー・エム入社。26歳で結婚、27歳で長女を出産。官公庁システム事業部第二営業部長、ソフトウェア事業公共ソフトウェア営業部長などを経て2009年より執行役員。