「豊臣兄弟!」(NHK)では信長亡き後、重臣の秀吉(池松壮亮)と柴田勝家(山口馬木也)が織田家中を二分して戦うことに。戦国史研究家の和田裕弘さんは「秀吉は決戦に備え、たびたび秀長に書状を送り、細かい指示を出していた」という――。

※本稿は、和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)の一部を再編集したものです。

狩野随川画「豊臣秀吉像」
狩野随川画「豊臣秀吉像」名古屋市秀吉清正記念館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

織田家の覇権争い、秀吉vs.勝家

秀吉自身は北近江から伊勢にかけた広大な戦線を一手に差配し、佐和山城、長浜城へ立ち寄り、木之本へ出撃するなど席の温まるいとまもなく駆けずり回っていた。木之本で決戦を挑もうとしたが、勝家軍が後退したため追撃したものの、勝家軍が玄蕃尾城げんばおじょう(福井県敦賀市・滋賀県長浜市)をはじめとした強固な城砦群に籠城したため、勝家軍に対し2万人ほどの軍勢を配置した上で長浜城、次いで安土城に帰陣した。この間にも丹羽長秀と連携し、勝家の退路を断つべく、若狭口から敦賀へ進軍させている。

秀吉軍の備えは以下の通り。▽一番=堀秀政▽二番=柴田勝豊の軍勢(勝豊本人は病のため不在)▽三番=木村隼人佐、木下将監、堀尾吉晴▽四番=前野長康、加藤光泰、浅野長政、一柳直末▽五番=生駒甚介、黒田孝高、明石与四郎、木下勘解由左衛門尉、大塩金右衛門尉、山内一豊、黒田甚吉▽六番=三好孫七郎(豊臣秀次)、中村孫平次▽七番=羽柴美濃守(秀長)▽八番=筒井順慶、伊藤掃部助▽九番=赤松次郎、蜂須賀家政(正勝の嫡男)▽十番=赤松弥三郎、神子田正治▽十一番=長岡(細川)忠興、高山右近▽十二番=羽柴秀勝、仙石秀久▽十三番=中川清秀。この次は秀吉の馬廻衆(親衛隊)で、先手は鉄炮衆、右備えは昵近じっきんの歴々衆(地位・身分の高い人々)、左備えは小姓衆の配置である。

万全の備えを構築したが、敵軍に動きがないことから秀吉自ら勝家軍の様子を視察したところ、敵陣にも付け入る隙がなく、また勝家軍もこちらに攻撃を仕掛ける様子もないことから作戦を練り直し、自軍の守備態勢を変更し、持久戦に備えた。

前線には秀長と、勝家の養子が

天神山砦が敵陣に突出しているため前線を同木山砦まで後退させ、柴田勝豊(編集部註:勝豊は勝家の甥で養子だが、勝家と不和になり秀吉についた)の軍勢を配置。左禰山さねやま砦には堀秀政、賤ヶ岳の尾崎砦には中川清秀、尾根続きの砦には高山右近、前線の総大将の秀長は田上山たがみやま砦を守備し、賤ヶ岳の頂上にも秀長の軍勢を配置した。

蜂須賀、生駒、神子田、赤松、黒田、明石、一柳らは木之本に陣取り、丹羽長秀の軍勢は海津口・敦賀口を押さえて勝家軍を封じた。秀吉は予想通り戦線が膠着こうちゃく状態となったことで、忠興は丹後の領国に帰国させて海上を警固。順慶らも帰国させ、秀吉自身も長浜城に戻り、さらに安土城に移った。整理すると、秀吉陣営は、東の左禰山から西の同木山のラインで最前線を構築し、北国街道から南下する勝家軍を迎撃する配置である。

信長の三男・信孝が再び謀反し…

秀吉は3月晦日(30日)付で秀長に「今日中に砦の堀外の小屋を破壊せよ」「勝豊の小屋の築造に協力せよ」「堀秀政の小屋は分担して今日中に破壊せよ」「小屋の火の用心を怠るな」などと指示を与えている。堀秀政、黒田孝高、木村隼人らの名前も出ており、秀長が前線の統括者であったことが分かる。秀吉は前線は秀長に任せ、北伊勢の戦線を視察する予定だったが、再度の謀反むほんは起こさないと高をくくっていた織田信孝(信長の三男)が岐阜城で敵対行動をしたため、北伊勢は信雄(信長の次男)に任せたまま、岐阜城攻めに進軍する。

秀吉は4月3日付で秀長に書状をしたため、次のように細々と指示した。

柴田方の陣取について「おかしき仕立したて」と揶揄やゆし、

「もし柴田方が、秀長かもしくは先陣に攻勢を仕掛けてくるようであれば在地へ帰陣させている五畿内の衆を招集して野戦を試みるので下々まで戦術を徹底させ、その準備をするようにせよ。柴田勝豊軍が裏切れば味方の士気が下がることはもちろん、秀長の外聞もよくないので注意するように。砦に籠って不用意に出戦しないように下々まで徹底させ、一人も出撃しないようにせよ。柴田方は緒戦の敗戦で面目を失い、このまま帰国することもできず進退窮まっているので、こちらから出撃しなければますます窮地に陥るのでこちらからは出撃するな。こちらはどっしり構えて敵軍の出方次第で対応すればよい。細かいことでも再々連絡するように。その情報をもとに軍事行動する。塩津など戦場近辺に人を派遣し、こちらの軍事行動が敵方に知られないように情報統制せよ」

と、また追伸では「些細ささいなことでも注進するように」と指示しているが、その実、秀長からの情報を最重要視し、それによって作戦を立案しようとしており、秀長への信頼の高さが窺える。

秀吉は膠着状態となっても、勝家軍が攻撃を仕掛けてくれば要害堅固な城砦群をたてに迎撃すればいいが、勝家としては、やはり秀吉軍を打ち破って上洛し、信長の正当な後継者として信孝を据える必要があった。当然、秀吉は百も承知で悠然としていた。4月5日早朝、勝家は戦況打開のために佐久間盛政らを率いて自ら堀秀政の左禰山砦へ攻撃を仕掛けたが、堀軍の鉄炮に撃退された。秀政は秀吉への報告の中で「誠に柴田は覚えざる手遣い、下々まで物笑いに仕候つかまつりそうろう」と嘲笑している。

福井市・柴田神社の柴田勝家像
写真=相良陽/photolibrary
福井市・柴田神社の柴田勝家像

勝家を「何たるていたらく」と嘲笑

この手紙(4月5日未刻ひつじのこく付)を受け取った秀吉は4月5日申下刻さるのげこく付で秀政に返書し、その中で「日頃から軍巧者いくさごうしゃといわれている勝家だが、秀政が一日で構築した砦さえも落とせないとは何たる為体ていたらくか。この分では天下へ切って上ることなどできないだろう。こちらは長浜城、横山城、佐和山城、さらには安土城などの名城にたくさんの軍勢を入れて守りを固めている。それに引き換え、勝家は秀政一人を相手にしても苦戦するなど情けない働きである」とし、「このようなことでは勝家が天下を夢に見ることはできないであろう」(『雑録追加』)と自信満々であった。

賤ヶ岳の戦いにおける勝家側の配置については、敗者ということもあり、不明な部分が多い。将軍足利義昭を擁している毛利軍との連携を図る勝家は、敗退の翌日(4月6日)付で毛利輝元に対し、自軍の状況を説明したあと、秀吉軍は勝家の南下を防ぐために3カ所の砦を構築して秀長や蜂須賀正勝を守備に就かせ、秀吉自身は南近江へ退いたと伝えている。秀吉をおびき出して討ち果たすので、この好機を逃さずに急いで出陣してほしい、と要請している。

しかし、秀吉は毛利との和平を確実なものとし、宇喜多氏からも援軍を得るなど(『熊野本宮大社所蔵文書』『戸川家譜』)優位に進めており、毛利氏としては両者の強弱の判断ができず、基本的には様子見に終始した。勝家が秀吉の後方を攪乱かくらんしようとしたように、秀吉も本願寺に加賀(石川県西部)で一揆を催すように要請し、また越後の上杉景勝(謙信の甥で後継者)とも結んで勝家を挟撃する作戦を展開したが、結局は賤ヶ岳の戦いそのもので勝敗は決した。

賤ヶ岳の古戦場にある武将像
写真=Hyper9/photolibrary
賤ヶ岳の古戦場にある武将像

秀吉は裏切り者を出した秀長に激怒

秀吉方の陣中では、勝家の養子でありながら秀吉に寝返った柴田勝豊の配下が謀反するという噂があり、前述のようにその軍勢の配置を変更し、秀長に対しても注意するよう促していたが、勝豊家臣の山路景勝将監(正国)が砦に火をつけ、人質の妻子も捨てて勝家の陣営に奔った。

秀吉は4月18日付で秀長のほか、中川清秀、高山右近、堀秀政に対し、注意を促していたにもかかわらず裏切り者を出したことについて厳しく糾弾した。全軍の士気にも影響したものと思われ、秀長らの失態であった。秀吉のもう一つの大きな誤算は、前述したように岐阜城の織田信孝の再度の謀反である。信孝の母、息女、家臣からも人質を徴していたため、再度の謀反はないと踏んでいた。

勝家軍が攻めてきたが…

秀吉は膠着状態の間に上洛を予定していたが、信孝蜂起ほうきの情報を得て、岐阜城攻めに出陣した。しかし、降雨による増水で河渡川ごうどがわ(長良川)を渡れず、大垣城まで戻って待機していた。その間、勝家方がようやく積極的な軍事行動を開始した。佐久間盛政が余呉湖を迂回うかいして中川清秀の砦を急襲。清秀は奮戦したものの盛政軍に討ち取られた。

和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)
和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)

すぐ近くにいた高山右近は清秀を救援するどころか、秀長のいる田上山の本陣に逃げ延びた。盛政は一気呵成に秀長の本陣を衝こうとしたが、本軍の勝家が動かず、せっかくの戦果を拡大させることができなかった。本陣の秀長は動かず、秀吉本軍の帰陣を待って一気に決着をつける秀吉の作戦を忠実に遂行した。

大垣でこの敗戦の急報を聞いた秀吉は、勝利を確信し、賤ヶ岳の戦場へ取って返した。中国大返しとともに秀吉軍の行軍の速さが讃えられる美濃大返しである。賤ヶ岳の戦場に戻った秀吉は、夜明けとともに態勢を整える前の盛政に攻勢をかけた。盛政は奮戦したものの、他の味方はたのむに足らず、しかも勝家自身も盛政を救援できず、総敗軍となった。

「賤ヶ岳の七本槍」などの活躍

秀吉軍も、与力であった中川清秀が討死し、高山右近も敗走、筒井順慶や長岡(細川)藤孝父子らは本国に帰らせており、宮部継潤は毛利氏に備えて因幡に在陣、仙石秀久も四国の押さえとして淡路に帰陣、池田恒興も根来ねごろ雑賀衆さいかしゅうに対処させていたため、賤ヶ岳の戦いそのものは秀吉・秀長兄弟のいわゆる旗本勢が活躍して勝家軍を粉砕した。

秀長は秀吉の旗本衆に交じって先陣を務め、激戦を繰り広げた。勝家軍は前田利家、原長頼、不破直光(光治の嫡男)、徳山則秀らの与力衆は当てにならず、勝家の旗本衆と盛政の軍勢くらいしか本格的な戦闘には加わっていなかったものと思われる。半日以上にわたって一進一退を繰り返したが、最後は秀吉が近習の若侍衆を投入して勝利を得た。賤ヶ岳で活躍したとされる「七本槍」のうち、平野長泰は秀長の近習であった。また、七本槍同様に一番鑓の武功を挙げた桜井左吉も秀長の家臣という。

豊臣秀長像(春岳院所蔵)
豊臣秀長像(春岳院所蔵)(写真不詳/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

勝家は敗走、秀吉は北庄城まで追う

秀吉は敗走する勝家を追撃して北庄城(福井県福井市)に追い詰め、4月24日、落城に追い込んだ。翌日には加賀まで侵攻して平定し、北陸の戦後処理を早急に済ませて帰陣した。勝家の旧領のうち、越前一国と、加賀国の能美・江沼二郡を最大の功労者である丹羽長秀に与え、秀吉に寝返った前田利家にも加賀国のうち石川・河北二郡を与えた。越後の上杉景勝も圧伏し、5月5日には長浜城に凱旋、7日には安土城に入った。この間、秀長の動向は掴めないが、『高山公実録』『公室年譜略』などには、北庄城攻略後、秀長が丸岡城(坂井市)を攻略し、秀吉とともに凱旋し、5月7日に安土城に帰陣したとしている。

一方、岐阜城の織田信孝は、国衆からの支持も得られず、賤ヶ岳の戦いに際してもなす術なく、織田信雄に岐阜城を攻囲されて自害した。降伏して野間のまで自害したとも、家臣に裏切られて死去したとも伝わり、その最期ははっきりしない。

福井市・柴田神社のお市の方と三姉妹像
写真=市川蒼/photolibrary
福井市・柴田神社のお市の方と三姉妹像

秀吉は勝利し、天下人の道へ

秀吉は、賤ヶ岳の戦いでの勝利により、8月1日付で家臣に対し、近江・河内・丹波・播磨・山城・摂津において大量の知行宛行状を発給している。秀長も直臣に対して褒賞しているはずだが、確認できない。二次史料では、たとえば藤堂高虎は秀吉から千石、秀長からも三百石を拝領したというが、信頼できる史料からは確認できない。

秀吉は最も恐れていた勝家を倒したことで「日本の治まりは、頼朝以来これにはいかでか増すべく候や」と自信を深め、信長の後継者を自認し、大坂城の築城を開始する。