※本稿は、大愚元勝『リーダーの器量を問う禅 感情に流されず正しく決断するための「整える」技法』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
部下が言うことを聞かないのは“おしゃべり”のせい
仏教の最初期経典『スッタニパータ』には、次のような一節があります。
リーダーの多くが「部下が言うことを聞いてくれない」と悩みます。部下が言うことを聞かない理由のひとつは、「リーダーの言葉が見事ではないから」です。
経典が説く「言葉が見事である」とは、雄弁に話すことでも、言葉巧みに相手を操ることでもありません。欲に駆られた言葉、怒りに任せた言葉、相手を傷つける言葉を避け、「相手を思いやる言葉」「真理に基づいた誠実な言葉」を使うことです。
「見事な言葉」に饒舌さは不必要です。饒舌さは、「中身の薄さ」を覆い隠す場合があります。聞き手はその場では感心しても、あとで「何を言っていたんだっけ」と中身が残らないことがあります。
話しすぎると、「また始まった」「いつもの話か」と聞き流され、重要な言葉も届かなくなる。
●自己中心的に見える
自分の話ばかりしていると、「部下に耳を傾けていない」と思われ、信頼を損なう。
●焦点がぼやける
長々と話すことで要点が伝わらず、部下が何を実行すべきかわからなくなる。
ブッダ「欠けている足りないものは音を立てる」
仏教経典には、言葉のあり方について示唆に富む教えが数多く説かれています。
軽率に発せられる言葉は人を不安にしますが、節度を守り、よく考え、落ち着いた心から真実を語るなら、その言葉は自然と人の心に響きます。やさしく甘美とは、表面的なやさしさではなく、聞く人を安心させ、信頼を育み、前へ進ませる力を持つことを意味しています。
空からに近い容器を振ればカラカラと鳴りますが、中身の詰まった容器は、振っても音はしません。小動物ほど落ち着きなく鳴き続け、百獣の王ライオンはめったに吠えません。
尊敬できる先輩や師は「寡黙」
人の心もまた同じです。内側(内面)が満たされていない人ほどよくしゃべり、満ち足りている人は余計なことを言いません。雄弁さよりも、誠実さと芯のある言葉が人の心を動かします。
私が尊敬する先輩や師は寡黙でしたが、その姿から「本物」を感じました。空手の先生は日常のすべてを鍛錬に結びつけ、整体の師は街を歩く人の背骨のゆがみまで見抜こうと修練を重ねていました。世間話や遊びに明け暮れる人の言葉には力がありませんが、常に道を究めようとする人の言葉には自然と重みが宿ります。
リーダーに必要なのは、言葉巧みに語ることではありません。真理に基づき、誠実に、余分を削ぎ落とした言葉を持つことです。そのためには、内面(=人間性)を磨き続ける姿勢が不可欠です。言葉の力は、人間的な成長と内面の充実から生まれます。
お釈迦さまは『ウダーナヴァルガ(感興のことば)』という経典の中で、次のように説いています。
「博学」とは、知識が豊富というだけでなく、自分の仕事や専門分野を深く理解し、プロフェッショナルとして研鑽し続ける姿勢を指しています。そして「徳行」とは、人として誠実であり、真摯に人と向き合う姿勢のことです。この2つが揃うことで、言葉に「人を動かす力」が生まれます。
「尊敬できる人の厳しい言葉」は受け入れられる
知識や技術に乏しく、人格的にも未熟なリーダーは、どれほど言葉を尽くしても部下から軽んじられてしまいます。自分の保身や金儲けばかりを優先する人間の言葉は、表面的には響いても心には届きません。一方、自分の仕事に精通し、さらに誠実さや人間性を兼ね備えたリーダーの言葉は、必ず信頼を勝ち取ります。
「部下にはほめたほうがいいのか、それとも厳しく接するほうがいいのか」。リーダーが抱える悩みのひとつです。
大切なのは、「ほめる」「叱る」といった手法そのものではなく、それを伝える人と伝えられる人との関係性です。尊敬できる人からの厳しい言葉なら、たとえ耳に痛くても受け入れられます。しかし、信頼していない人からの言葉は、どんなに優しい言葉でも心に響きません。
お釈迦さまは弟子に対して、ときに厳しく接しました。「成すべきことは、泣きながらでもやりなさい」と説いています。現代で同じことを言えばパワハラと非難されるかもしれませんが、当時の弟子たちはその言葉を深く受け入れました。なぜなら、お釈迦さまが「尊敬できる存在」「信頼できる存在」だったからです。厳しさが相手に届くかどうかは、信頼と尊敬にかかっています。
怒鳴るリーダーに足りない「一貫性」
厳しさは、真剣さに比例しています。警察や消防、軍隊では、部下を守るために徹底した厳しさが求められます。失敗が命に直結するからです。同じように、僧侶の師が弟子に厳しいのも、その人生を預かっているからです。
厳しさは、相手の命や人生を守るために必要です。けれども、その矛先を誤れば一転して相手を傷つける力になってしまいます。本来は相手の成長や安全を願って向けられるべきものが、リーダー自身の保身や利益のために使われたら、厳しさは相手を育てる力ではなく、押さえつける力に変わります。
自分の保身や利益のために振りかざす厳しさは、「教育」ではなく「洗脳」です。
教育は、相手が自立して判断できる力を伸ばすための関わりです。一方、洗脳は、恐怖や同調圧力を利用して従わせるための関わりです。洗脳は相手の思考を停止させます。リーダーに求められるのは、相手の未来を見据えた「教育としての厳しさ」です。
「厳しいリーダー」と言われて思い浮かぶのは、感情的に怒鳴る姿かもしれません。怒鳴るリーダーに足りないのは「一貫性」です。本当の厳しさとは、一貫性があることです。駄目なものは駄目と、状況にかかわらず明確に示す。気分によって「今日はいいよ」と基準が揺れるリーダーには、誰もついていけません。
思いやりと厳しさを両立する3要素
良いものは良い、悪いものは悪い――状況によって基準を変えないことが前提です。
●言動における一貫性
叱るときこそ、リーダー自身が同じ基準を守っているかが問われます。自分が守らないルールを部下に求めれば、それは教育ではなく押しつけになり、信頼は崩れていきます。
●態度における一貫性
気分次第で許したり叱ったりするのではなく、誰に対しても誠実に接し続けることが大切です。
この3つが揃って、リーダーの厳しさは安心感と信頼につながります。
思いやりと厳しさは(ほめると叱る)は、対立するものではありません。幼い子どもには「よくできたね」と励ましが必要ですが、成長する過程では、壁を乗り越える厳しさも必要です。
ほめて調子に乗る人もいれば、叱られて伸びる人もいます。大切なのは相手の成長段階と性格を見極め、「ほめる」と「叱る」のバランスをとることです。スキル不足や準備不足、失敗への耐性不足など、誰もが避けられない経験は、放っておいても本人が直面します。
成長の過程で訪れる困難を見守るのも、リーダーの思いやりです。ときにはあえて距離を置き、本人が自ら壁にぶつかるのを待つことも大切です。思いやりのない厳しさは人を追い込み、厳しさのない思いやりは人を甘やかします。両者を兼ね備えたとき、はじめて人を育てるリーダーになれます。
相手のためを思い、ときに優しく支え、ときに一貫して厳しく伝える。その背後に「この人は本気で自分の成長を願っている」という確信があるからこそ、部下は安心してついていけるのです。
モチベーションは“与えられるもの”ではない
リーダーに求められる最重要の役割は、「部下のやる気と自主性を育てること」です。仕事に集中できない状態を放置すれば、本人だけでなく、チーム全体に悪影響を及ぼします。「やる気が出ない」という部下に、リーダーはどう向き合えばよいのでしょうか。一時
的な励ましではなく、根本からモチベーションを育む視点が不可欠です。
「モチベーション(motivation)」の語源は、ラテン語の「モヴェーレ(movere)」です。「モチベーション」は「動機を与えること」や「物事を行う意欲・やる気」を意味しますが、モヴェーレにはほかにも、やる気を引き出したり、行動を促す意味が含まれます。
そもそもモチベーションは、「人から(外部から)与えられるもの」ではありません。犬が「お手」をするのは、ごほうびがほしいからです。ごほうびが与えられなくなれば、犬は命令に従わなくなります。企業でも、昇給やボーナスといったごほうびに頼るだけでは、社員のやる気はすぐにしぼんでしまいます。
本来のモチベーションは「自分の内側から湧き上がる力」です。仏教、とくに禅宗では、「主体的な人格」や「本来の自己」のことを「主人公」と表現します。外部からの影響や煩悩に惑わされず、生まれ持った佛性(生まれながらに持つ仏となるための性質)に目覚めることの大切さを説いています。
主体的に自分を見つめ、何事にも惑わされず、本来の自分として生きるのが「主人公」です。自分の人生を「やらされている」ものではなく、自分が主人公として選び取ることから、本当のモチベーションが湧き上がってきます。
報酬・昇進・賞罰では持続しない
モチベーションには、大きく2つの種類があります。「内的動機」と「外的動機」です。
●外的動機……報酬、昇進、賞罰など、外からの刺激によるもの。短期的には有効だが、持続性に欠ける。
●内的動機……やりがいや充実感、達成感、使命感など、自分の内面から湧き上がる動機。主体性を高め、長期的に力を発揮できる。
給料や昇進、罰則といった外的動機は、一時的には効果があっても長続きしません。長期的に人を動かすのは「何のために」「誰のために」という問いに根ざした内的動機です。叱ったり脅したり、罰則や懲罰を与えて人に従わせることも、外的動機です。
行動そのものへの興味や関心ではなく、外部からの刺激(罰則を避けること)が動機になっているため、その刺激がなくなれば行動も止まる傾向にあります。テストのためだけに勉強した知識がすぐに忘れられるように、外的動機に頼った行動は根づかないのです。
前述したように、上司が強権を発動し、痛みとセットで人を従わせるのは、「教育」ではありません。恐怖や罰則で行動を制御する「洗脳」ではなく、自分で考え、自分で決断する力を養うことが「教育」です。
「何のために、誰のために」を問い続ける
内的動機を育てる鍵は、「なぜこの仕事をするのか」「誰のために行うのか」という問いを部下に投げ続けることです。
「何のために」「誰のために」を問い直すことで、仕事は「やらされるもの」から「自分からやりたくなるもの」に変わります。
私の福厳寺では毎月第2土曜日に「ご縁日」を開催しています。月まいり法要(読経会)や坐禅会、写経・写仏会などが催され、多くの人が訪れます。この行事は、弟子の吟心英幸の発案で始まりました。「仏縁によって多くの方がつながってほしい」「大切な人を亡くした方々が、年忌法要だけでなく、毎月、故人を偲ぶ場をつくりたい」という、弟子たちの自主性が形になっています。
ご縁日の準備には手間がかかり、負担も大きい。しかし弟子たちがそれを苦にしないのは、報酬や義務ではなく、「何のため」「誰のため」という問いに根ざした内的動機があるからです。ご縁日は、地域の人々の心を支える場へと成長しています。
モチベーションは外から与えるものではなく、内側から芽生えるものです。リーダーの役割は、その芽が育つ環境を整えることにあります。「何のために」「誰のために」という問いを日常の中で繰り返す。そうして部下自身が「自分は主人公だ」と気づいたとき、モチベーションは自分のものとなり、強く長く燃え続けるのです。
