「皇室典範改正」に向けた動きが、今国会で進んでいる。主な論点は、女性皇族が婚姻後も皇族身分を保持する案と、皇統に属する男系男子の養子縁組を容認する案。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「皇統に属する旧宮家の養子案のほうは、実は保守派が忌み嫌う『伝統破壊』の側面を持っている」という――。

皇統の伝統を壊す「旧宮家養子案」

国会では皇族数の確保についての議論が続いている。そのなかで選択肢として浮上してきているのは、旧宮家の養子案と女性宮家の創設である。

どちらも実現する可能性があるが、旧宮家の養子案のほうは、実は保守派が忌み嫌う「伝統破壊」の側面を持っている。

保守派は、これまで「愛子天皇」待望論を封じようとしてきた。いったん女性天皇が誕生すれば、それは女系天皇への道を開くことになり、男系男子での継承というかけがえのない「伝統」が崩れてしまう恐れがあるというのだ。

そもそも旧宮家の養子案は、「女性・女系天皇」の実現を阻止するために提案されたものである。

小泉純一郎内閣のもとで2005年1月より始まった「皇室典範に関する有識者会議」では、女性天皇だけではなく女系天皇を容認する提言がなされた。この時点では、秋篠宮家に悠仁親王はまだ誕生しておらず、愛子内親王しか将来天皇に即位するにふさわしい皇族がいなかったからである。

この有識者会議の提言に危機感をつのらせたのが保守派である。彼らは、男系での継承を維持するために、旧宮家の皇族復帰や養子案を唱えるようになる。

その後、2006年9月に悠仁親王が誕生することで、有識者会議の提言に基づく皇室典範の改正はなされなかった。

どうしても女系継承を阻止したい保守派

ただ、皇族の数が減少していく事態は変わらなかった。

そこで野田佳彦内閣のもとで2012年に行われた「皇室制度に関する有識者からのヒアリング」では、女性宮家の創設が提言されたのに対して、保守派は旧宮家の養子案を強く推すようになった。

こうした流れは、菅義偉内閣で設置され、岸田文雄内閣へと引き継がれた「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に基づく有識者会議に影響を与えた。その最終報告書では、女性宮家創設と養子案がともに提言されたのである。

保守派は、女系での皇位の継承はなんとしても阻止しなければならないと考え、そこにつながる可能性のある女性天皇に反対してきたのだ。

先日配信された〈だから「愛子天皇」への道は絶対に阻止すべき…「国民人気」で次の天皇を決めた日本人を待つ悪夢のシナリオ〉という記事も同様である。

その記事では、愛子内親王が人気だからといって、天皇に推すのは伝統を破壊するから危険だと指摘されている。

ただし記事のなかで、男系での継承が、結局は歴史的な事実とは異なる神話にしか根拠を求められないことが露呈されている。

しかも、これから述べるように、伝統を破壊しようとしているのは、実際には保守派なのである。

2025年3月19日、海洋研究開発機構の北極域研究船「みらいII」の進水式に臨む愛子内親王殿下
2025年3月19日、海洋研究開発機構の北極域研究船「みらいII」の進水式に臨む愛子内親王殿下(写真=文部科学省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

親子ともに皇族経験のない旧宮家

旧宮家が皇籍を離脱したのは1947年10月14日のことで、それからすでに79年の歳月が経とうとしている。

したがって、断絶してしまった旧宮家も少なくない。その見込みの家もある。それは7つの家におよび、残っているのはわずか4つの家である。

そのなかに、皇族時代を経験している年配者もいないわけではない。だが、ほとんどは皇籍を離脱してから生まれており、皇族時代をまったく経験していない。生まれてから現在まで、ずっと一般国民として生活してきたのである。

存続が見込まれる旧宮家として一番古い久邇くに宮家では、離脱したときの当主は朝融あさあきら王である。離脱後は久邇朝融を名乗り、1959年に亡くなっている。

久邇宮朝融王(1901~1959)
久邇宮朝融王(1901~1959)(写真=大日本帝国軍/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その後を継いだのは邦昭くにあき王で、離脱後は久邇邦昭を名乗り、現在も存命である。邦明氏には2人の男子がいて、1959年生まれの長男には男の孫が1人いるらしい。こうした男性が養子の候補者になるのだろうが、その男性は皇族を経験していないばかりか、その親でさえ同様なのである。

ここでは、話をわかりやすくするために、皇籍離脱した人物を「1世」とし、その子を「2世」とする。すると、養子の候補となる邦明氏の孫は「4世」になる。

養子対象になる「旧宮家男子」の実態

では、他の旧宮家ではどうなのか。

これについては情報が限られていて、世代が進むにつれてはっきりしなくなっている。それも一般の社会に溶け込んで生活している証しになるが、養子に入る可能性のある若い世代の男子は、どの家でも3世か4世である。

つまり、旧宮家の男子とはいっても、皇族を離れた人物の孫や曾孫なのである。

こうした世代にとって皇族時代ははるか昔の出来事である。祖父などからその時代のことを聞かされたこともあるかもしれないが、あまりにその時代は遠い。

ずっと一般国民として育ってきた人間が、いくら養子に入ることが可能になったからといって、それに応じるものだろうか。そこが大いに疑問であり、その点についてはすでに指摘した

しかし、ここで重要なポイントは、皇族経験をまったく持っていない人間が、皇室の身分を養子縁組で得ること自体が“極めて異例”だということである。伝統破壊だというのは、そこである。

では、その伝統とはどういうものなのだろうか。

「臣籍降下」が無数に起きた皇室史

戦後に制定された皇室典範において、皇籍を離れる際には「皇籍離脱」という表現が使われる。女性皇族が結婚したら皇室を離れるわけで、その際には、この表現が用いられる。

ただ、それ以前に、皇室を離れる場合には「臣籍降下」という表現が用いられた。天皇や皇族は姓をもたないわけで、皇室を離れれば姓が必要になる。その姓を天皇から賜り、臣下の籍(一般の戸籍)に入ることが臣籍降下である。

皇室の歴史のなかで、臣籍降下は無数にくり返されてきた。それも、皇族の数が増えすぎると経費がかさみ、経済を脅かす危険性があるからだ。

さらに、男子の皇族が多くなれば、皇位をめぐって争いが起こる可能性が高まる。歴史のなかで、そうしたことは現実にくり返し起きてきた。

その際に、臣籍降下が行われるのだが、そこには大きく分けて二つの道があった。

史実が示す皇族復帰の“境界線”

一つは武士になるもので、源氏や平氏はその具体例である。鎌倉幕府を開く源頼朝の清和せいわ源氏だと、第56代の清和天皇の孫を祖とする武家の一族である。その源氏と戦って敗れた平清盛の桓武かんむ平氏だと第50代の桓武天皇の子を祖とする。

もう一つが出家する道である。彼らは「法親王」と呼ばれ、有力な寺院のトップになって、仏教界に君臨した。

ただ、さまざまな都合によって、いったん臣籍降下した人物が皇族に復帰することもあった。経済的な理由で臣籍降下が行われたものの、皇位継承者が不足する事態が生じたときにおいてである。

旧宮家の場合も、その源流となる伏見ふしみ宮家の皇子たちは多くが出家しており、明治に入って還俗し、それで新たな宮家を立てた。久邇宮家も東久邇ひがしくに宮家もそうして生まれた宮家である。

戦後に臣籍降下した伏見宮博明王(1930年代撮影当時)
戦後に臣籍降下した伏見宮博明王(1930年代撮影当時)(写真=国立国会図書館デジタルコレクション:永続的識別子 1206852/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ここで注目しなければならないのは、いったん臣籍降下した人物が皇室に復帰する場合、それはあくまで本人に限られることである。その子どもや孫まで復帰することは伝統にならなかった。

ただ、二つだけ例外がある。

保守派が根拠にする皇室史の前例

一つは平安時代、第60代の醍醐だいご天皇である。

父は第59代の宇多うだ天皇である。宇多天皇は皇族の定省さだみ王として生まれたものの臣籍降下し源定省と称した。ただ、父の光孝こうこう天皇の死によって皇族に復帰し、天皇に即位している。本人が臣籍降下した後に天皇に即位したのは、歴代でもこの宇多天皇だけである。

醍醐天皇は父が臣籍降下している間に生まれたので、その時点では臣下の子という立場にあった。ただ、父である宇多天皇が皇族に復帰した際に、醍醐天皇自身も復帰し、それで父の死後に皇位を継承している。これも他にはないことである。1世や2世としてとらえるならば、宇多天皇は臣籍降下した1世で、醍醐天皇は2世である。

もう一つは鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての源忠房ただふさである。父は臣籍降下した源彦仁よしひとであった。忠房は出世を遂げ、第91代の後宇多ごうだ天皇の猶子ゆうし(名目上の養子)となって皇族の資格となる親王宣下を受け、皇族に復帰して忠房王となった。

保守派は、この源忠房(忠房王)という前例があるから、旧宮家からの養子も認められると主張してきた。ただ、忠房も醍醐天皇と同様に2世である。

男系を絶対条件にすると生じること

現在、旧宮家から養子になる男性が現れたとしたら、それは3世以降になり、その点では醍醐天皇とも源忠房とも異なっている。臣籍降下した人物の孫や曾孫が皇族の身分を得られた例は歴史上存在しない。それは伝統に反すると見ることができる。

旧宮家の人間以外にも、天皇家の血筋を引いている場合がある。源氏には清和源氏以外に村上源氏や宇多源氏があり、その末裔まつえいである家はいくらも現存する。

たとえば、元首相の細川護熙氏などは、清和源氏の流れを汲む足利氏の一門に属しており、男系で清和天皇にたどり着く。

第79代内閣総理大臣・細川護煕氏(1993年8月撮影当時)
第79代内閣総理大臣・細川護煕氏(1993年8月撮影当時)(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

男系を絶対の条件とし、旧宮家の人間が皇族に復帰できるのなら、細川氏のような人間が、あるいはその子や孫が皇族に復帰できても不思議ではない。

男系で皇室につらなる人間を皇族に復帰させ、なんとしても皇族数の確保をするというのであれば、そうしたことを許容する手も最終手段として考えられる。

だが、それに国民は納得するだろうか。

養子に皇位継承権が与えられる可能性

そうなれば、伝統から外れることになり、それは皇室の「権威」を失わせることにつながる危険性がある。

ここで見逃せないのは、養子になって皇族に復帰した人物は男性なので、皇位継承権を与えられる可能性が生まれることである。

これこそ伝統の破壊以外の何ものでもない。

男系では、「天皇の親戚」ともいえないはるか遠い縁しかない人物が、天皇に即位するかもしれないからだ。

現在の国会論議は「皇族数確保」に限定され、養子となった人物に皇位継承権を認めるかについては棚上げされている。しかし、保守派の多くは、旧宮家養子案を「男系継承維持」のためと考えており、将来的に皇位継承資格を与えようとしている。“皇族数確保”という主張のその先に、“皇位継承候補の補充”という本当の目的が透けて見えるのだ。

このように伝統を破壊してまで、養子案にこだわる勢力が存在するのは、それだけ皇位継承が危機に瀕しているからである。

要するに、男系での継承にこだわれば、どうしても伝統が失われる。ならば皇室典範を抜本的に改正し、多くの国民が求めている第1子が皇位を継承する方向にそれを改めるべきではないだろうか。

日本国憲法第1条では、天皇の地位は「日本国民の総意」に基づくと規定されている。ここで言われる国民の総意とは何なのか。問われているのは、まさにそのことなのである。

鉛筆を手に取組表に勝敗を記入し、大相撲を観戦される愛子さまと天皇、皇后両陛下=2007年9月、東京・両国国技館
写真提供=共同通信社
鉛筆を手に取組表に勝敗を記入し、大相撲を観戦される愛子さまと天皇、皇后両陛下=2007年9月、東京・両国国技館