「ばけばけ」(NHK)で再注目されたラフカディオ・ハーンは、日本人のセツと結婚したのち日本に帰化。東京に800坪の屋敷を買って家族と暮らし、そこで最期を迎えた。作家の青山誠さんは「ハーンが死んだとき、長男の一雄は中学校に上がる前。その下に3人の子がいた」という――。

※本稿は、青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

神戸時代の小泉八雲と妻セツ、長男の一雄
写真提供=小泉家
神戸時代の小泉八雲と妻セツ、長男の一雄

新大久保駅近くの800坪の邸宅

ハーンが住まいに求める条件は「淋しい田舎であること」「庭が広く樹木がたくさんあること」だった。それにぴったり当てはまる物件が豊多摩郡大久保村西大久保に見つかり、これを買うことに決めた。

西大久保は、富久町の借家から徒歩20~25分ほど。現在はコリアンタウンとしてにぎわいをみせているJR山手線・新大久保駅からほど近い一帯がそのエリアだが、この頃は富久町と同じで人家もまばらな郊外だった。維新後は華族が別邸を建てるようになり、セツが購入したのも旧備中松山藩主の板倉子爵が所有していた屋敷。木々が豊かに繁る広々とした敷地は800坪にもなる。

富久町の借家から裏手の坂道を登り自証院境内へ、急坂を登り切って丘陵の頂に達すると今度は長く緩やかな下り坂になる。坂を下り切ったあたりが西大久保だ。蟹川流域の低湿地にある農村で、広々とした田園地帯には陽光が燦々さんさんと降り注ぐ。畑の中に点在する藁葺き屋根の農家の庭先には、収穫した野菜が山積みになっている。朝には東京市中から大勢の業者が野菜の買い付けにやって来て、村に通じる道筋は大八車の行列でにぎわう。少なくとも日のあるうちは、妖怪や幽霊がでてくるような環境ではない。

木々に埋もれて薄暗く陰気な富久町の旧宅付近よりも、セツにはこちらの雰囲気のほうが好ましかった。

一番欲しかった「終の住処」

購入した屋敷は老朽化して傷んだ箇所も見られ、あちこちに手直しが必要だった。書斎や書庫も増築せねばならない。居間や子ども部屋から遠ざけた離れに書斎があれば、ハーンも騒音に煩わされず執筆に集中できるだろう。大工や左官など職人との打ち合わせはすべてセツがやった。富久町から西大久保は徒歩圏内だが、急坂が連続して起伏に富んでいる。歩くのが苦手なセツにはハードだった。だが、ほぼ毎日、彼女は現場に通い詰めて工事の進捗状況を見守り、職人たちに細かい注文や指示を出していた。

日本風の屋敷だが、寒いのが苦手なハーンのためにストーヴのける部屋を作り、そこだけは障子ではなく西洋風のガラス戸にして暖房効率を高めるよう工夫した。細部にも気を配り住み心地にこだわる。夫が執筆に集中でき、家族が快適に過ごせる家にしたいと、改築工事の監督に心血を注いだ。

工事が完了して新居に引っ越したのは、明治35年(1902)3月19日のこと。ハーンは屋敷の中をあちこち眺めまわしながら「面白い」「楽しい」と満足そうに微笑む。その笑顔を見てセツも安堵し、ここがふたりのつい住処すみかになることを確信する。安住の地、一番欲していたものをやっと手に入れた。

妻セツや子どもたちとの散歩

西大久保に転居してからも、ハーンの散歩好きはあいかわらず。50歳を過ぎても健脚は衰えず、あちこちの神社や寺を巡り歩く。成長した(編集部註:長男の)一雄や(次男の)巌を連れて出かけることも増えている。セツも時々、人力車の助けを借りて散歩に同行する。家族団欒だんらんのひと時を楽しんでいた。

この頃のハーンが好んでよく行ったのが、雑司ヶ谷の鬼子母神きしもじんと野方村の新井薬師だった。屋敷のすぐ近く、村を東西に貫く真っ直ぐな道が伸びている。鬼子母神へ行く時はこの道を渡って北上し、陸軍演習場がある戸山ヶ原の丘陵地を横断する。軍隊が射撃訓練をする時には道沿いに赤旗を掲げて通行禁止となるが、それ以外の日は通り抜けが許される。まだのどかな時代だった。

赤旗の有無を確かめて歩きつづけると、やがて道は旧鎌倉街道に合流する。戸山ヶ原を過ぎ神田上水に架かる面影おもかげ橋を渡れば、旧街道の風情がしだいに濃厚になってくる。江戸時代には竹林が生い茂って昼間も暗く、狐や狸が現れて通行人をだましていたという。また、この道沿いには落語「怪談乳房榎ちぶさえのき」ゆかりの寺として知られる南蔵院なんぞういんもあり、セツがそれを見過ごすわけがない。話を仕入れてハーンに語って聞かせたことだろう。

南蔵院を過ぎれば、すぐに鬼子母神の参道が見えてくる。この辺りも雑木林が多く、そこに生息する野鳥の囀りがよく聞かれたという。ハーンは鳥の声に耳を傾けながら、「よい声です。あなたはどう思いましたか?」などとセツに問いかけたりする。

東京都豊島区の雑司ヶ谷鬼子母神堂
写真=photolibrary/a-text
東京都豊島区の雑司ヶ谷鬼子母神堂

青山墓地より雑司ヶ谷を望んだ

ハーンは雑司ヶ谷を「寂しい景勝地」と言って気に入り、自分が死んだらここに埋葬してほしいと言うようになる。雑司ヶ谷には明治7年(1874)に東京府管轄の墓地が設置されている。東京府の墓地としては青山墓地のほうが大きく、外国人も多く埋葬されていた。しかし、ハーンは華やかな雰囲気が漂う青山墓地よりも、雑司ヶ谷墓地を好んでいた。

もうひとつのお気に入りの場所だった新井薬師は少し遠い。ハーンは浴衣に下駄履げたばきといった近所を歩くようなスタイルで出かけるのだが、西大久保からは往復で10キロ以上になる“遠足”だった。

大久保通りを西へと歩き、線路を越えて右に曲がる。この道筋には「百人組」と呼ばれた伊賀鉄砲組の組屋敷が点在し、屋敷内の敷地で副業のツツジ栽培がさかんにおこなわれていた。維新後には共同経営の大規模なツツジ園が造られ、春から初夏には1万本以上の木が一斉に赤やピンクの花を咲かせる。沿道からもその眺めを楽しむことができた。セツもここでは人力車から降り、ふたり肩を並べて花を眺めながら歩いただろうか。

成田山大阪別院節分祭での(左から)俳優の髙石あかり(「ばけばけ」トキ役)、トミー・バストウ(ヘブン役)、岡部たかし(司之介役)=2026年2月3日、大阪府寝屋川市
写真=共同通信社
成田山大阪別院節分祭での(左から)俳優の髙石あかり(「ばけばけ」トキ役)、トミー・バストウ(ヘブン役)、岡部たかし(司之介役)=2026年2月3日、大阪府寝屋川市

長男に「私はもうじき死んで煙に」

やがて道は戸山ヶ原に向かって緩やかな上り坂となる。丘陵西端にある陸軍演習場の着弾地を迂回うかいするように道は左にカーブしてゆく。この付近には牧場があり、青々と繁る草原で乳牛が草をむのどかな景色が広がっていた。また、牧場の先には落合の火葬場の煙突も見える。ハーンはここでよく立ち止まり、火葬場の煙突から流れる煙を眺めていたという。一雄を連れて散歩にでかけた時に火葬場の煙突を指差して、「もうじき私も、あの煙突から煙になって出ます」と言ったことがあった。

「小さな子供に言うべきことではありません。それに、まだ長生きして下さらねば困ります。あなただって孫の顔を見たいでしょう?」一雄から話を聞いたセツがそう言って諭したところ、「見たいです。しかし、難しいです。一雄の中学校へ参るを私見る難しい……」ハーンが悲しげな顔で言う。あの時の表情がセツは忘れられない。一雄の中学校入学まではたった4年、それが難しいという。弱気な発言が心配になっていた。

雑司ヶ谷霊園の小泉八雲の墓
雑司ヶ谷霊園の小泉八雲の墓(写真=Kakidai/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

2km先の早稲田にも人力車で通う

東京帝国大学を解雇された後、勤めた早稲田大学は鬼子母神に行くよりも近く、屋敷からは直線距離で2キロほど。戸山丘陵を越えていった先にある。体調が万全ならば、人力車など使わずに散歩がてら歩いて通ったかもしれない。しかし、ここのところ体調を崩すことが多くなり、5月には重い気管支炎を患って喀血した。そのため散歩を自粛して、あまり遠くまでは出歩かなくなっている。

また、医師から喫煙も禁じられていた。ハーンは煙草好きで書斎にはいつも煙が充満していた。煙管の収集が趣味で、凝った装飾や彫りのあるものを100本以上も所持している。庭園を眺めながら煙管を吹かすのは、心安らぎリラックスできる至福のひと時だったのだが、その楽しみを禁じられ、さらには、焼津での海水浴も今年は中止して自宅で静養するように言われている。

散歩も自粛して出歩かなくなったぶん、執筆活動に費やす時間は増えている。この頃はすごい集中力で仕事に没頭し、大量の原稿を書き上げていた。この世に少しでも多くの作品を残そうと必死になっているような……夫のただならぬ雰囲気に、セツは不安を感じて落ち着かない。

衰えゆく夫にセツは不安を抱いた

体調がある程度回復してくると、ハーンはまた無茶をやらかすようになる。夏になると医師からは止められていた焼津への海水浴にも出かけてしまう。誰が何を言っても聞かない。老いても“一国者”(編集部註:がんこな人)の性分は健在だった。

ハーンは夜行列車に乗って8月10日に焼津に着いた。一雄、巌、書生の3名が同行し、セツは3男・清と1歳になる寿々子とともに東京で留守番している。ほぼ毎日“ヘルン文字”で綴った手紙をやり取りして、お互いにその日の出来事や子どもたちの様子を報告した。ハーンからの手紙には「小・カワイイ・ママ・サマ」などと、セツをいとしむ言葉も必ず添えられていた。また、セツからの返信には「パパサマノ、カラダ、ダイヂスル、クダサレ」とか、ハーンの体調を心配する言葉が多く見られる。いくつになっても仲睦まじい。

8月26日には、セツが清と寿々子を連れて焼津にやって来た。家族みんなで海辺の避暑地で夏休みを楽しんで、8月29日に帰京している。家族全員が揃っての旅行は、これが最初で最後だった。

家族旅行のわずか1カ月後に死去

9月19日午後にセツが書斎へ行くと、ハーンが胸に手を当て苦しそうにしている。胸が痛くて苦しいと言うので、急いで医者を呼んで診察してもらった。

この時は大事に至ることはなく、翌日にはもう机に座って仕事をしようとしてセツに止められた。庭や廊下を歩きまわるようになり、順調に回復に向かっていると安堵したのだが、1週間が過ぎた9月26日の夜になって容体が急変した。

夕食の時はいつもより機嫌が良く、冗談など言って笑っていたのだが、急に顔をしかめて、箸を置いて書斎に行ってしまう。セツが慌てて後を追いかけると、胸に手を当て廊下を歩きまわっている。

青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)
青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)

「ママさん、先日の病気また参りました」寂しげな表情でそう言う。すぐに布団を敷いて寝かせ、枕元でずっと手を握りつづけた。顔色は青ざめていたが、苦しそうな感じはない。表情は和らぎ安堵しているように見える。優しい眼差しを向けながら、「私、死にますとも、泣く、決していけません。私の骨、田舎の寂しい小寺に埋めてください」と言う。それが遺言だった。セツも最後の瞬間が迫っていることを察して、「みんな早く来ておくれ!」

子どもたちを呼んだ。部屋に入ってきた一雄がすがりついて父に声をかけるが、ハーンは何も反応しない。医師が駆けつけた時にはすでに息をしておらず、臨終が告げられた。その死顔は安らかで、口元には微笑みが浮かんでいたという。