屈強な宇宙飛行士でも3分の2以上は、初めての宇宙で酔うという。なぜ人は「乗り物酔い」をするのか。児童書『宇宙飛行士を支える医師  "宇宙酔い"への挑戦』(金の星社)を上梓したジャーナリストの笹井恵里子さんは「耳鼻科医の石井正則さんはアメリカ留学中、リスザルを使った実験を繰り返す中で、酔う人と酔わない人を分ける決定的な差を突き止めた」という――。

アメリカの医科大学でどなられる

石井正則まさのり先生の留学先であるベイラー医科大学は、アメリカの国内評価ランキングでトップクラスの常に高い評価を得ている私立大学です。医療センターとして世界最大規模のテキサス医療センターの中心部にキャンパスを構えています。近くにはアメリカ航空宇宙局NASAナサ」のジョンソン宇宙センターもあります。

2016年1月25日、ジョンソン宇宙センター
2016年1月25日、ジョンソン宇宙センター(写真=bryan.../CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

留学してすぐのことです。

「だれだ、日本からこれを送ってきたのは!」

ベイラー医科大学の研究所内で、大きなどなり声がひびきました。声の主は、五十嵐まこと教授。五十嵐教授は、日本からの荷物を見て顔を真っ赤にしておこっています。ゴルフバッグですから中にはゴルフクラブが入っているのが一目瞭然。

「すみません、私です」

石井先生がかたをすくめながら、名乗り出ました。五十嵐教授がぎろりとにらみます。でも、心の中は小学生のまま――。

(研究所の近くにゴルフ場があるって聞いたからさ……。休みの日くらいゴルフをしたっていいだろ)

ぶつぶつ文句を言っていました。もちろん、心の中の不満は見せず、神妙な顔で五十嵐教授の話を聞く石井先生です。

「宇宙酔い」の研究をNASAと開始

五十嵐教授はとても優秀な日本人研究者でした。アメリカ航空宇宙局「NASA」で、素晴らしい数々の研究結果を発表し、ベイラー医科大学に教授として招かれたのです。

一方で教育熱心で、石井先生をはじめ留学生にとても厳しい態度でした。たくさんの研究費をもらっていたので、しっかりした成果をださなくてはいけないと考えていたのかもしれません。

ここで、石井先生はどんな研究をしていたのでしょう。

主に「宇宙酔い」の研究でした。ベイラー医科大学は、アメリカ政府とNASAから研究費をもらい、宇宙飛行士に役立つ研究をしていたのです。

宇宙飛行士の多くが宇宙に行くと酔って吐き、つらい思いをします。早く治さないと宇宙飛行士としての使命が果たせません。さらに大きな問題もありました。酔って吐いてしまったものが宇宙船内のかべに張りめぐらされている電子機器につくと、電極板の中でショートが起こるという深刻な事故につながってしまうのです。

「宇宙酔い」は、耳鼻咽喉科の専門分野である「内耳ないじ」と関係があることはまちがいありませんが、そもそもなぜ人が宇宙に行くと酔ってしまうのか、その仕組みが解明できていませんでした。そこで地上で乗り物に酔った状態を作り、内耳の機能を測定するなどの研究をすれば、宇宙酔いの役に立つかもしれないと考えたのです。

乗り物酔いの原因が見えてくる

実験ではお猿さん(リスザル)をぐるぐる回し、車酔いと同じような状態を作ります。するとお猿さんも酔って吐いてしまうのですが、それをどうすれば止められるのか、いくつかの薬の注射などを使いながら研究を続けたのです。

何だかお猿さんがかわいそうに感じますね。でも「仕組み」や「原因」を解明するのに動物実験は欠かせません。それもできればネズミなどよりも、人に近い霊長類での実験のほうがいいのです。

お猿さんを使った乗り物酔いの研究は、宇宙酔いの予防法と治療法を見つけるため、大切な研究でした。ただその時は石井先生自身も、むなしさを覚えていました。

(こんな研究が本当に宇宙で役に立つんだろうか。めまいや耳鳴りの治療も進歩するのだろうか)

女性の耳の痛み
写真=iStock.com/Rattankun Thongbun
※写真はイメージです

毎日毎日お猿さんにバナナやマシュマロなどのエサをあげて世話をする、そしてお猿さんを回して人工的に乗り物酔いを起こし、彼らに薬を投与するのですから無理もありません。でも実験をくり返すうち、乗り物酔いの症状には「自律神経」が深く関わることがわかってきました。

自律神経とは私たちの意思とは関係なく、呼吸や発汗、心拍、体温調節といった、生命活動を維持するために休まず働いてくれる神経です。石井先生がここで実験したことは、その後何十年も研究を続ける上での土台になりました。

またともに研究する仲間にも出会えました。石井先生がベイラー医科大学に留学した1984年ごろ、ほかに3人の日本人医師が同じ研究所に留学したのです。そのうちの一人、宇佐美真一しんいち先生とは馬が合い、帰国後も親しく交流を続けることになります。

宇佐美先生も、石井先生と同じ耳鼻咽喉科の医師。当時を振り返ってこう言います。

「ぼくより半年くらい前から石井先生が研究所にいてね、右も左もわからないヒューストンの地で、生活のことをふくめていろいろ教えてくれたんですよ」

車の運転免許の取り方、ごはんを食べる場所や日用品を買うお店はどこがいいか……。「そうそう」と、宇佐美先生は思い出したようにくすりと笑って「月に1回、交代で休みをとったなぁ」となつかしそうに話しました。

研究所には、休みがありませんでした。ふつうの日本の会社なら休みとされる、土曜や日曜も、夏のお盆休みも、お正月も五十嵐教授は休まず出勤します。五十嵐教授は出勤すると実験室の様子を見にくるので、日本人の留学生たちも休むことができなかったのです。

休めない医師たちが「月に1回休む」ワザ

そこで4人の医師はかわるがわる休むことにしました。ふつうに休むことはできませんから、「休む人のカバン」を、「研究室に行く人」が実験室に持っていくのです。

「あれ、今日は石井さんの顔を見ていないな」

ある日曜、五十嵐教授が言いました。

「いや、さっきいましたよ。どこか別の場所で実験しているんでしょう」

宇佐美先生が石井先生のカバンに目をやりながら応えます。本当は石井先生はお休み。宇佐美先生がそのカバンを持ってきたのですが。

「そうか」

いそがしい五十嵐教授はそれ以上追及することなく、その場を立ち去りました。

「でもね、みんな1年や2年という限られた時間で自分の研究テーマを勉強して力をつけたいという目的で留学していますから、基本的にはすごくまじめなんですよ」と宇佐美先生。

「ただ、月に1回くらいは休みたいですよね。だからそんなふうに交代で休んで、時には遊びに行ったり、のんびりしたりしましたよ」

そう言って笑いました。

乗り物酔いと耳の構造の関係

石井先生も宇佐美先生も、「探究心」が人一倍。特に石井先生は「なぜそういうことが起こるのか」という生理学、宇佐美先生は解剖したり電子顕微鏡でのぞいて「構造」をみたりする解剖学のほうに興味があるようです。

それではなぜ、「宇宙酔い」「乗り物酔い」が起きるのか、二人の先生に説明してもらいましょう。

まずは構造にくわしい宇佐美先生。

「耳のおくにある、カタツムリみたいな形をしている『蝸牛かぎゅう』、ここで音を聞いています。そして(1)前半規管、(2)後半規管、(3)外側半規管をまとめて三半規管といい、回転の加速度を感知します。三半規管はリンパ液で満たされていて、回転するとリンパ液もそれに合わせてまわるので、自分が回転していることを感じるのですね。一方で(4)卵形らんけいのうと(5)球形のうには『耳石器じせきき』があって、これは直線の加速度センサー。細胞の上にたくさんの小さな石がのっているので、例えば車が急ブレーキしたり、エレベーターが一気に上がったりすると、石だけが一瞬置いていかれる。そのズレによって加速度を感じるんですね」

耳の中のとても小さな器官にそんな複雑な働きがあるのですね。さてこの(1)〜(5)の信号が脳にいき、加えて「足で立っている」というような「筋肉」からの情報、上に天井があって下に床があるというような「目」からの情報も合わせて人はバランスをとっています。

乗り物酔いしやすい人の特徴

「ところが宇宙に行くと、重力がありませんから筋肉からの情報がありません。重力にともなう加速度もなくなります。でも目からは情報が入りますね。だから脳が混乱して、宇宙酔いを起こしてしまうのです」

地球上にあるものは、地球がその中心に向かってあらゆる物体を引き寄せる力「引力」に引っ張られます。また、地球の自転によって生まれる力もかかっています。引力と自転によって起こる力をあわせて「重力」といいますが、宇宙ではその力が働かないのです。

次に、生理学が得意な石井先生に、みなさんも体験する「乗り物酔い」について教えてもらいましょう。

石井先生は「乗り物酔いにおちいるステップは3段階」と説明します。

「宇佐美先生が言うように、耳からの情報と目で見た情報を脳内であわせることによって、自分の体の動きや位置がわかるようになっています。そして第1段階が目の動きと、耳からの情報でふだんとちがうズレが生じ、異常を感じた時です。これが酔いの出発点。乗り物酔いをしない人は、第1段階でズレを異常と感じないため、第2段階には進みません。乗り物酔いしやすい人は、『ゆれる乗り物のなかでゲームや読書をしない』『遠くの景色を見なさい』とよく言われるでしょう。それは耳からの情報と目で見た情報のズレを少なくするためです」

第2段階は、その異常を脳の「海馬かいば」という場所で、過去の記憶と照らし合わせ、「快か不快か」を判断します。ジェットコースターを楽しめる人は、第1段階で異常を感じても、「これは不快ではない」と脳が判断するため、乗り物酔いの症状が起きないのです。

人間の脳と大脳辺縁系の解剖学、海馬
写真=iStock.com/libre de droit
※写真はイメージです

「しかし第2段階で脳が不快と判断すると、自律神経が反射的に異常反応(乗り物酔いの症状)を起こしてしまいます。これが第3段階です」

乗り物酔いをしやすい人は自律神経が過剰に反応しやすいことと、その乗り物に対する学習経験の不足があるそうです。

石井先生は、留学を終えて日本にもどってからの研究で、乗り物に乗り慣れると、「日常の情報」として脳の海馬に記憶され、酔わなくなることを突き止めています。同じように宇宙飛行士も、初めての宇宙では3分の2以上の人が酔ってしまいますが、2回目の宇宙へのフライトではほとんど酔わないそうです。

つまり宇宙酔いも、乗り物酔いも、多くの原因は体験学習の少なさ。体験の積み重ねで必ず酔いは克服できるのです。

「チャレンジャー号爆発事故」の痛恨

3・2・1、発射。アメリカでスペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げられました。しかし、73秒後――チャレンジャー号は爆発してしまいます。乗組員の宇宙飛行士7人全員が亡くなりました。これを「チャレンジャー号爆発事故」といいます。1986年1月28日に起きた出来事でした。

原因は、「Oオーリング」という密封するためのゴム製の部品の破損です。

食品を保存する「密閉容器」にたとえると、ふたのところに密封するためのやわらかい部分がリング状についているものがありますよね。スペースシャトルにも機体と燃料の間にリング状のゴムを入れて、燃料がもれないように設計していました。けれどもとても寒い中で打ち上げをしたことで、ゴムが縮んでしまい、その縮んだ隙間から燃料がもれてしまったのです。

石井先生はベイラー医科大学の研究所でこのニュースを聞き、胸が痛みました。つい1カ月ほど前、スペースシャトルに乗った宇宙飛行士と挨拶をしたばかりだったからです。

(なんで極寒の中、打ち上げてしまったんだ……)

じつは打ち上げの延期に延期が重なり、関わるみんなが疲労困憊こんぱい、寝不足でした。そのため判断をまちがえて、打ち上げ命令を出してしまったのです。

数千枚という頭蓋骨の画像を見た

チャレンジャー号爆発事故によって宇宙関連の研究はすべてストップになりました。

NASAからの研究費は打ち切られ、各研究所では研究者たちにお給料を支払えません。それどころか研究する費用、お猿さんの餌代さえ出ないのです。

「もう明日から来なくていい」

講師も助手も、スタッフが次々に解雇されました。これまで順調に進んでいた研究も突然の終了です。最終選抜試験を突破し、宇宙飛行士に選ばれた毛利さんや向井さんの訓練も中止になりました。

残念でしたが、石井先生も実験が一区切りしたところで、

(日本に帰ろう)

そう思いました。

留学した2年半の出来事が頭をかけめぐります。振り返ると、自分自身がとても成長できたなぁとしみじみ感じました。

まず、耳の構造が「平面」ではなく「立体」で思い描けるようになりました。これは留学前にはできなかったことでした。世界トップクラスのハーバード大学や、石井先生が留学したベイラー医科大学には、亡くなった人たちの頭蓋骨の側面「側頭骨そくとうこつ」の画像があり、石井先生は毎週研究結果を説明するために必ずこれをチェックしなければならなかったのです。

数千枚という画像を見るうちに、複雑な内耳の仕組みが立体的に頭にうかぶようになりました。つまり構造をみる、解剖学の力がのびたのです。

次に、体でなぜそういうことが起きるのかというシステムの理解、生理学という分野もよくわかるようになりました。

例えば耳の神経機能のバランスがくずれたら「めまい」が起きる、心臓の拍動が速まれば血流のスピードが速くなって血管がぎゅっと細くなり「血圧」が上がる――医学の教科書で言葉として覚えたことですが、それらがきちんと理解できたのです。

笹井恵里子『宇宙飛行士を支える医師 “宇宙酔い”への挑戦』(金の星社)
笹井恵里子『宇宙飛行士を支える医師 “宇宙酔い”への挑戦』(金の星社)

(もし、自分に点数をつけるなら……、留学前は他の大学でわかることも東京慈恵会医科大学ではぼくもだれも知らなかったから、マイナス30点だろう。留学後の今は、100点ではないかもしれない。けれど耳鼻咽喉科の医師として合格点の80点にはなったと思う)

だから石井先生は満足でした。心残りはゴルフくらいでしょうか。

(日本を出発する時に、せっかく研究所にゴルフバッグを送ったのに、五十嵐教授がこわくて、結局一度もアメリカでゴルフができなかったなぁ)

思わず苦笑いです。でも、ひとまわりもふたまわりも大きくなった自分がいます。そして無事に日本に帰って来られて良かったと、心からほっとしました。