※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。
ハーンは帰化のため松江に戻る
ハーンが帰化して日本国民となれば、日本人と同じ給与になるのではないかとの危惧があったが、今や、生活費の安い日本に住んでのことだが、印税収入で生計を維持する自信が持て、その迷いも消えた。明治28年(1895)8月以降西田が言語上の仲立ちをして、高木苓太郎(セツの親戚)が、松江市役所での戸籍手続きを進める。
ハーンは、手続き開始の半年前にも、老友ワトキン宛の手紙に己の生命の衰えを記したが、(伝記作家の)ニナ・ケナードが、未亡人(セツ)の話として書いているところによれば、「この1895年の秋、血管の硬化など心筋梗塞の徴候が彼に警告を発していた」(『ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn』1912)。事実であれば、諸手続きは急がれたであろう。
8月27日、藤三郎(セツの実弟)を戸主とする殿町の小泉本家から、(セツの養祖父)稲垣万右衛門が住んでいたと思われる「内中原三〇二番屋敷ノ四」を住所として、セツを戸主とする小泉の分家が立てられた。翌日の日付で、(松江の英語教師でハーンの友人である)西田千太郎がセツ宛の長文の手紙(池田記念美術館)を書き、小泉家と稲垣家の事情等を伝えている。
小泉家で「外国人入夫結婚」を申請
9月には、「セツ私生子」なる長男・一雄の出生届が、出生時の「届漏」を詫びる戸主(藤三郎)の文言を入れて提出され、10月3日には、「親戚協議ノ上」での「外国人入夫結婚」の願いが出された。後者は松江市役所で済まされず、島根県知事を煩わせて、翌年1月15日に「聞届」けられる。
そして明治29年(1896)2月12日、内中原の平民小泉八雲の「妻セツ(戸主)退隠後あと相続」が相成り、翌日、八雲の「小泉藤三郎姉セツ私生子男一雄ヲ子ト認メ」る「願」が、「承認」された。
一方、前年11月6日に出されたハーンの帰化申請に対しては、10日ほどして神戸市役所職員が、下山手通り6丁目の家(神戸第二の住居)に来訪し、その後市役所に呼び出して、セツに種々の尋問を行っている。ただし、ハーンに日本国天皇への忠誠を求める兵庫県知事の要請は、神戸のイギリス領事への書面(1月3日付)の提示で済まされ、2月14日、めでたく知事の認可が下った。かくしてこの日、戸籍手続きによる法的結婚とハーンの日本国籍取得とが、完成を見たわけである。二つの「家」が絡み、前例のない「外国人入夫結婚」が入る手続きが、いかに煩瑣を極めたかは、苓太郎の現存するセツ宛書簡(池田記念美術館)が、42通を数えることでも知られる。
医師ベルツと日本人妻の場合
セツとハーンの結婚の4年ほど前、近代日本医学の恩人と仰がれるエルヴィン・フォン・ベルツが、日本女性のハナ(花)と結婚していた。お雇い外国人として顕要な地位にあったベルツは、有名な『ベルツの日記』で、あのように深い愛情と敬意とをもって、彼の日本人の妻を語っている。
しかし、我々は2人が結ばれた経緯について、ハナが、17歳の明治14年(1881)頃、加賀屋敷にあった帝国大学官舎の十二番館に女中として入り、ハナ23歳ベルツ38歳の明治20年(1887)前後に結婚したのだろう(明治22年・男子トク誕生)、という程度にしか知ることができない。戸籍上の婚姻届が出されたのは、実に明治37年(1904年11月28日)である(真寿美・シュミット=村木『「花・ベルツ」への旅』等)。
一雄は、「母ローザへ尽せざりし孝養と妻への愛情との両方を夫から受けた妻セツは実に幸福な女性である」と書いている(『父小泉八雲』)。ベルツとハナの場合と比較する時に、同じ年恰好や男女の身分関係であっても、ハーンとセツが、いかに人生の困難を担って生き、ハーンの帰化を絡めて、いかに苦労しているかが理解される。
日本人名・八雲を命名したのは?
八雲という命名は、西田の手紙によれば、万右衛門によってなされた。記録された日本最古の歌――『古事記』と『日本書紀』との双方に登場する歌――「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」に由来する。「八雲立つ」という美しい枕詞に飾られる出雲に来て、櫛名田比売(稲田姫)を娶った須佐之男命の歌。
新婚のための「新室寿」とも言えるこの歌は、セツとハーンにとって最もふさわしい「雅歌」ではなかろうか。
東京へ引っ越す前にも松江へ
戸籍手続きを終えた2月の下旬、家族で伊勢へ旅行し、帰路大阪に1週間ほど滞在したが、4月初めには帝国大学(翌年から「東京帝国大学」)への奉職が確定する。9月の上京・移住の前に、ハーンとセツはトミ(セツの養母)と一雄を伴い、2カ月の予定で出雲に帰省した。神戸では、中山手通り7丁目の家(神戸第3の住居)に、金十郎(セツの養父)がお米・お梅の2人の女中とともに留守を守る。
6月30日の松江到着以来、宿泊先の旅館にセツの縁者やハーンの元同僚たちが、引きも切らず来訪した。その中でチエ(セツの実母)は「気品の高い容姿のお祖母様で……どことなく冷たい感じのする(人で)」、そのか細い声を嫌った一雄は失礼な態度をとって、パパから生まれて初めてのスパンク(尻の平手打ち)を食らう。
セツの養祖父は78歳で没した
万右衛門は熊本時代に、「稲垣一雄は万万歳」の文句を入れた自作の子守歌で、一雄を負って回ってもいたから、一家の来訪を大いに喜んだであろう。その後も松江に留まった彼は、その1年半後に――内中原の家でと思われるが――78歳をもって没している。
西田千太郎が誰よりも熱心に旅館を訪ね、また宴席をハーンと共にしたのは当然で、セツも改めて挨拶と御礼に西田宅を訪問している。セツが親族以外で最も信頼してきたこの西田は、再会からわずか8カ月後(1897年3月15日)に、両親に妻、それに11歳の長女を頭に下はまだ2歳の3男まで、4人の子供を遺し、34歳の若さで胸の病に屈し、地上で最も信頼した友を失ったハーンを、「悲嘆と落胆のドン底に陷れた」。
34歳で早世した西田との思い出
出雲滞在の最後の1週間は、4人家族に西田を加えて杵築で過ごす。着いた翌日(8月12日)、出雲大社に詣でた。『朝日新聞』が「出雲の神様にお礼参り 小泉八雲夫婦」という記事を載せたが、二人の結合を、かくも完全なものとし給うた縁結びの大神に対して、御礼の参拝を行ったのは当然である。
参拝した日の夜、セツは深夜の1時までかけて、神戸の(養父)金十郎に長い手紙を認めている。引続きの雨天で寒く、一雄には単衣2枚を重ね着させている事などの報告とともに、連日の新聞の転送や、留守中、夜中交代で「ねずの番」をしていることなどに感謝していることが、書き送られた。中でも、「父上さまのふんどしは まちがいにてかばんの中に入り 当地に罷在るに付きさぞ御不自由の事と察し……」の事を二度も書いて、セツと金十郎との、ユーモアを交える大らかな親子関係が察せられるのが、興味深い。
この8月12日以来、養神館に宿泊して、5年前の夏の日を偲ぶかのように、稲佐の浜での海水浴を楽しむ。後に一雄は、小さな波を恐れるのを忌々しがったハーンから、「あなた日本男児ないですか!」と叱られた思い出を語っているが、一雄は満3歳に3カ月足らず、その父親は日本人になってからまだ6カ月にしかなっていなかった。
