八雲と西田は“異常なまでに密接”だった
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」で、キーパーソンとなっているのが錦織友一(吉沢亮)である。小泉八雲の松江時代を描くこのドラマで、錦織はなにか新たな展開を持ち込んでくる役どころ。この人物がいなければ物語が動かないと言っても過言ではない。
ドラマでは地域のエリートとして、ヘブン(トミー・バストウ)に振り回されるコミカルなキャラクターとして描かれている錦織だが、実在のモデル・西田千太郎との関係は、ドラマよりもはるかに濃密だった。
いや、濃密などという生易しい言葉では足りない。二人の関係は、現代の言葉で表現するなら「ブロマンス」と言ってしまったほうが分かりやすいかもしれない……そう言いたくなるほど、異常なまでに深い仲だったのだ。
とにかく、八雲と西田が二人で過ごす時間は長かった。妻のセツとは確かに同じ屋根の下で暮らしていた。だが、西田と過ごしている時間のほうが長かったのではないか――そう思えるほどなのだ。
松江に来た当初、八雲は横浜で知り合った真鍋晃を通訳として連れてきていた。ところが真鍋がさまざまなトラブルを起こしたことで、八雲は彼と縁を切ってしまう。こうなると、八雲が頼れるのは西田しかいない。
学校で会っているのに、八雲→西田の手紙は110通超え
いや、本当にそうだろうか?
松江でも、人数は少ないとはいえ日常会話レベルで英語を使いこなす人間は複数いた。八雲が勤務する中学校には日本人の英語教師がいたし、僅かとはいえ当時の大学を卒業したエリートたちは漏れなく英語に通じている。通訳の候補者には事欠かないはずだ。それなのに八雲が西田にこだわった理由、それは西田の信仰に近いような献身だった。
八雲と西田が出会ったのは1890年8月30日。西田の日記には「直チニ旅館冨田ニ訪フ」と記されている。そこから西田が亡くなる1897年まで、わずか7年間の付き合いだ。だがその濃度が尋常ではない。
「あなたを待っています」
— 朝ドラ「ばけばけ」公式 放送中 (@asadora_bk_nhk) October 31, 2025
ヘブン先生を待っていたのは、生徒たちだけではありません。
松江の将来を憂う錦織さん自身も、ヘブンさんとの出会いで何かが変わることを期待しています。
人間どうし、誠実に向き合うことを、改めて誓う錦織さんでした。#トミー・バストウ #吉沢亮#ばけばけ pic.twitter.com/JtcLa3SqbU
西田の日記を開けば、八雲が松江を離れる1891年11月15日まで、週に何度も「ヘルン氏」の名前が出てくる。ほぼ毎日である。二人は同じ中学校に勤めているのだから、出勤すれば職場で顔を合わせるのは当然だ。
だが、それだけではなかった。現存する八雲から西田宛の手紙は、なんと110通を超えている。毎日顔を合わせているのに、だ。おそらく失われた手紙も相当数あるだろうし、西田から八雲への返信も同じくらいあったはずだ。
職場で会って、家に帰ってまた手紙を書く……これだけで2人の関係がいかに密だったかがよくわかる。
史実の西田は「苦労人」
八雲がそれほどまでに西田を信頼した理由は、彼の置かれた境遇にあった。
ドラマ「ばけばけ」では、錦織友一(西田がモデル)が地域のエリートとして描かれ、八雲に振り回されるコミカルなキャラクターになっている。だが史実の西田は、もっと苦労人だった。
1862年、足軽の子として生まれた西田は、18歳で松江中学校を卒業後、そのまま中学校補助として雇われた。22歳で上京し独学で英語や論理学を修得、25歳で文部省の中学教員免許状を得る。帰郷後は27歳で教頭心得に、その後は校長心得にまでなった(萩原順子「小泉八雲と西田千太郎 「神々の国」での邂逅」『国際関係研究 10(1) 国際文化編』1989年)。
しかし大学を出ていないため、ついに校長になることはなかった。
それだけではない。西田は結核を抱えていた。島根郷土資料刊行会が編纂した『西田千太郎日記』の解説には、こう記されている。
八雲は西田の案内で、出雲の神社仏閣を数多く巡っている。身体も衰弱し、まさに死を意識している中で八雲の好奇心に応じていたのである。
八雲にとって“初めての理解者”だった
それを、八雲が見逃すはずがない。八雲自身、隻眼というハンディキャップを抱え、流浪の末に異国の地へたどり着いた人間だ。社会の周縁で生きる者の孤独を、誰よりも知っていた。
死の影におびえながら、それでも自分のために尽くしてくれる西田……八雲は彼の中に、自分自身を見たのだろう。
隻眼で異邦人、社会の周縁を生きてきた八雲と、足軽の子で病を抱え、学歴の壁に阻まれた西田。二人は境遇こそ違えど、同じように生きづらさを抱えていた。だからこそ、八雲は西田を信頼したのである。(参考記事:だから「普通の英語教師」になれなかった…ばけばけ・小泉八雲が「最底辺の移民」から「文学の巨人」になれたワケ)
興味深いのは、八雲が日本に来てから、アメリカ時代の人間関係をほぼ断ち切っていることだ。ジャーナリストのエリザベス・ビスランドなどごく一部の例外を除いて、かつての知人たちとの交流を絶っている。(参考記事:11歳年下の女性にゾッコン…「ばけばけ」で描かれない、小泉八雲が来日直前に書いていた"ラブレター"の中身)
なぜか。おそらく八雲は、アメリカで「理解されない」ことに疲れ果てていたのだろう。隻眼の異邦人として、常に説明を求められ、常に周縁に置かれ続けた日々。そんな八雲が日本で出会ったのが、西田だった。
言葉は完全には通じない。それでも西田は、八雲の孤独を理解した。自分もまた、病と身分の壁に阻まれた人間だったからだ。八雲にとって西田は、生まれて初めて得た「理解者」だったのかもしれない。だから八雲は、西田を信頼した。それはもう、依存と呼ぶしかないレベルである。
“共依存に近い絆”があったのではないか
この二人の関係を、現代の言葉で表現するなら「ブロマンス」と言ってしまったほうが、むしろ分かりやすいのではないか。
もちろん、性的な関係があったというわけではない。だが、妻がいるのに毎日のように西田と過ごし、(西田は病弱で欠勤も多いが)職場で顔を合わせているのに帰宅後も手紙を書く。西田もまた、結核で身体が衰弱していくなか、死を意識しながらも八雲のために神社仏閣を案内し続ける。
この献身と依存の関係を、単なる「友情」や「師弟関係」と呼ぶには、あまりに濃密すぎる。むしろ、互いに互いを必要とし、相手なしでは生きられない、そんな共依存に近い絆だったのではないだろうか。
ここで一つ疑問が湧く。妻のセツからみて、2人の関係はどうだったのだろうか。
通例考えれば、ちょっとは嫉妬しそうなものである。なにしろ、神社仏閣をめぐるのに基本の同行者は西田である。なにせ西田は人間として信頼できるだけではない。地域の名士であるから尋ねた先の神社仏閣も下には置かない。特に1891年9月に出雲大社を参拝した時には、西田の紹介のおかげで神殿の内側まで見学できているのだ。
西田は当初、セツを「妾」と記した
とはいえ、結婚したばかりの夫が、独身時代の友人と遊び歩くとなれば、妻としては面白くない。新婚家庭の揉め事のパターンだ。「結婚したんだから、もう少し家にいてほしい」と妻が不満を漏らし、夫が「友達との付き合いも大事だろ」と反論する、あれである。
八雲の場合、それがさらに極端だった。いつも西田と出かけ、帰宅後も手紙を書くのだ。なるほど、妻としては面白くないちょっとは遠慮しろ! と思っていたとか想像してしまう。
だが、西田からすれば事情は全く逆だった。
もともとセツは女中として雇われた女性である。それがいつの間にか八雲と恋仲になり、結婚までしてしまった。西田にしてみれば、「八雲先生を惑わせた女」に見えたとしても不思議ではない。
とりわけ、2人が新居を借りて夫婦として暮らし始める直前の1891年6月には、セツの実母・チエが八雲に無心する騒動が起きている。これも話をつけたのは西田であった。この騒動のせいで、西田はセツに対して複雑な感情を抱いていたようだ。日記中ではこの時期、セツのことを「妾」と表記している。
ただ、そんな悪感情も長くは続かなかった。
西田の日記によれば、チエの無心の件を八雲の家で相談したのが6月14日、17日にはチエがやってきて御礼を述べたとの記述がある。西田は、すぐにひと肌脱いだらしい。その後、西田はたびたび新婚家庭の八雲宅を訪問し、食事も共にするようになる。
“セツもいて当然”の関係性に
そして夏休みに入った7月26日、八雲と杵築(出雲大社)に出発。28日にはセツが合流するのだが、ここから西田の日記の表記が変わる。「妾」から「セツ氏」へ、そしてその後は「せつ子」と記すようになっていくのだ。
その後の西田と八雲の関係は、セツもいて当然のものとなっていった。それは日記からも読み解ける。
例えば、八雲が熊本に移った後の1892年7月8日の日記には「写真一葉、及せつ子ヨリ朝鮮飴一箱ヲ持参届ケ呉レラル」とある。どうも、セツのほうも西田をかけがえのない八雲の恩人として下にも置かなかったらしい。同年8月9日に夫妻が来訪した時には、セツは八雲が持参した土産とは別に、西田の妻へ博多織を贈っている。さらに1895年には、セツが見舞いに来たことも記されている。
さらに興味深いのは、1896年7月の出来事だ。この年1月、八雲は入籍して帰化した。7月1日に松江を訪問した際、到着するとすぐに西田を旅館に招いてもてなしている。その翌日、2日の日記にはこう記されている。
西田の日記では珍しい「感謝の表現」
ここで注目したいのは「予亦酬ユル所アリ(よまたむくゆるところあり)」という表現だ。現代語に直せば、「私は感謝の念が絶えなかった」というところだろう。これは西田の日記の中で、ほかにはあまり見られない表現である。
西田の日記は備忘録形式であり、その日の出来事を記すのみで、感情を記しているところがほとんどない。例えば、前日1日の八雲との宴会も、以下のように事実関係のみを記している。
久しぶりに八雲に会えて、互いに旧交を深めあったことは想像に難くない。なのに、西田の記述はあくまで無機質だ。ところが、その翌日にセツが土産物を持参した日には、冷静でいられなかったらしい。「予亦酬ユル所アリ」とまで記しているのである。
この感情の漏れは、何を意味するのか。
この年の1月、八雲は入籍し帰化した。つまり、正式に日本人となり、セツとの結婚も法的に確定したのだ。西田が7月に再会した八雲は、もはや異国からやってきた流浪の文筆家ではなく、「小泉八雲」という日本人だった。そしてセツは、その妻である。
日記から“心境の変化”が伝わってくる
おそらく西田は、この夫婦の新しい門出に、深い感動を覚えたのだろう。かつて松江で出会った孤独な異邦人が、今や日本に根を下ろし、妻と共に生きている。夫が恩人を訪ねる旅に同行し、夫とは別に自分のために土産を用意してくれるセツの心遣い。そこには、互いを思いやる夫婦の愛があった。
だからこそ、普段は感情を記さない日記に、「予亦酬ユル所アリ」という言葉が漏れ出たのではないか。
当初、西田にとってセツは「八雲先生を惑わせた女」だった。
そもそも八雲は、セツを「ハウスキーパー」として雇ったはずである。ところが、あっという間に男女の仲になってしまった。西田の困惑は想像に難くない。
さらに悪いことに、二人が関係を持つとすぐ、セツの実母・チエが無心にやってきた。「娘がお世話になっておりまして……先生も給料が高いと聞いておりますので……」などとやったに違いない。西田が懸念していた通りの展開である。印象は最悪だったはずだ。日記に「妾」と記していたのも、西田の複雑な心境……いや、むしろ失望の表れだろう。
その後、7月の杵築への旅で西田は「セツ氏」と記すようになる。だが、この他人行儀な表記もまた、西田の微妙な心境を物語っている。まだ完全には受け入れられない。割り切れない何かが、そこにはあったはずだ。
「予亦酬ユル所アリ」と記さずにはいられなかった
だが、それから5年。
1896年7月、西田が目にしたのは、まったく違う光景だった。1896年7月、西田が目にしたのは、まったく違う光景だった。八雲は日本人「小泉八雲」となり、セツは正式な妻となっていた。恩人を訪ねる旅に同行し、自分のために土産を用意してくれるセツの姿に、西田はかつての警戒心など微塵も感じていない。
むしろ、そこにあったのは感動だった。
孤独な異邦人だった八雲が、今や日本に根を下ろし、妻と共に生きている。その夫婦の絆を目の当たりにして、西田は「予亦酬ユル所アリ」と記さずにはいられなかったのだ。