「能力」は年齢とともに増進すると定義された

しかしそれは、賃金の自動的な積み上がりを意味しませんし、何より企業側がそれを呑めません。日本的年功給のもう一つの特徴、そして日本の労働者が年齢とともに賃金を上げてきた第3の背景は、「組織による労働者の査定」です。

当時の日経連(現在は日本経団連に吸収)は、査定の強化により賃金に「能率給」という性質を持たせようとしていました。ただ、当時は労働組合の力が強く、経営は彼らに慮ることが必要でもありました。そこで、「能率」について、出来高ではなく職務遂行能力を当てはめるという「発明」を行い、「能力」について、人によりばらつきがあるものの、おおむね年齢とともに増進するという定義を施したのです。この、一律でない右肩上がりという賃金カーブの性質は、多くの労働者にも受け入れやすいものでした。

日本的な年功給の背景にあったものとして考えられるのが、江戸時代から続く儒教的な上下観念や家父長制です。ただ、前近代的な遅れた慣行だったのかといえば、少なくとも当時の世界においては、そうとも言えません。年功給は男性労働者の存在を想定していましたが、「男は外で働き、女は家を守る。女は仕事から帰ってきた男の疲れを労い、翌朝また送り出す」といった性別役割分業意識は、洋の東西を超えた、近代資本主義社会の産物です。

「スキル」と書かれたブロックが積み上げられている
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「年功で階段を上る」ができあがるまで

【海老原】僕はこの「年功で階段を上る」という仕組みが、戦前~戦中~終戦混乱期の仇花だとも思っているんです。戦前は職工身分制とも呼ばれ、欧州以上に階級的であり、職員(エリート)と現場の工員で大きな処遇差がありました。それは仕事以外にも、たとえば、社内の購買で、エリートは国内米を購入できるが、工員は外米しか買えないといった差別まであったのです。この職工身分制が、戦中期の産業報国会により崩れ出します。職員・工員の区別なく、一致団結すべし、と。この時期、少ない食料を平等に配分するとか、出兵で数が減った熟練工の待遇が上がるなど、職・工の待遇差が薄らいでいきます。

ところが戦争が終わると、GHQ(連合国軍総司令部)が戦前の体制を徹底的に破壊することになります。そのための一つの手段として、当初は労働組合が使われたわけですね。それが江夏さんのいうところの、「強い労働組合」の根源でしょう。ただ、それが行き過ぎて大型の労働争議が頻発するようになり、企業は経営が立ち行かなくなっていきます。

社員は「このままじゃ会社が潰れて、食い扶持に困る」と悩む。一方、共産党主導の組合側は、「会社など潰して新しい社会を創ろう」と煽る。そうした中で、経営側ににじり寄った人たちが第二労働組合を作り、日本型の労使協調を生んでいく。

つまり、戦前の格差社会→戦中の一時的な和解→終戦期の反発といった流れの中で、もうこんな不毛な争いはやめようと手打ちをしたのが、労使協調だと思うんです。それが江夏さんのいう通り、労使が納得いく能力仮説に基づく年功給でした。