学校でも職場でもしょっちゅう行われる「話し合い」だが、その目的ややり方を理解してやっているのだろうか。政治学者の岡田憲治さんは「話し合いや議論の目的は、『正しい結論を出す』ことではない」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)の一部を再編集したものです。 

日本の国会議事堂
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なぜ議論するのか

そもそも、人はどうして議論などするのだろうか?

すまん。やっぱり「そもそも」の話になった。

僕たちは、学校で、街場で、家庭で、「話し合いなさい」と言われ、「対話が大事」と教わり、「議論が必要だ」と耳にしてきた。そうやって言葉を投げ合ってやりとりすることの大切さはなんとなくわかるし、面倒くさい気もするけど、相手が何を考えているのかわからないと困るし、ガスを吐き出さないと心のなかが何かで詰まってしまう感じもある。

でも、そうしたやりとりが「対話(ダイアローグ)」なのか「討論(ディベート)」なのか「議論(ディスカッション)」なのか、あまり細かい区別もなしに、「話し合い」として、いろいろなされてきた(この区別については踏み込まない。その前の部分がとりあえず大事だ)。

こんなことはないだろうか?

中学の時、夏休みが終わったら「マサトシ、部活辞めるってよ」ってLINEに流れてきて、あんなにサッカー燃えてたのに、何であんなにあっさり辞めるんだよと思ったところ、顧問のサカモト先生が「あいつが部活辞めるの、お前らにも責任あるんじゃねぇのか? 話し合え」とか、かん高い声で言ってきたりした。マサトシが辞めるのに何でオレらに関係があんだよと思うが、母さんに話したら「やっぱり、よく話し合ったほうがいいんじゃない?」なんて言う。よくわかんない。

話し合ってどうすんだよ?

話し「合って」ないじゃん

でも、金曜日にホームルーム終わって部室行ったら、3年生とかも集まって、「話し合って」いた。はじっこのほうに、当のマサトシがぽつんとパイプ椅子に座って、先輩たちの話を聞いている。よくよく聞いてみると、要は話し「合う」んじゃなくて、マサトシの気持ちを聞いてやることが目的のようだ。「合って」ねぇじゃん。聞いてるだけじゃん。しかも、聞いてどうなるのか誰もわからないし、オレらが今日ここに集まって話を聞いてる理由も、「マサトシ部活辞めるってさ」以外にわからない。でも話し合う。いつもそう。なんか、話し合う。実際は3年がずっと話してる。
クラス対抗の体育祭の実行委員会があるから、全クラスから委員選んで2名ずつ視聴覚教室に集まれとメールがきた。話し合いがあるらしい。行ってみると、「1年や中等部が、あたしら高2の委員会の指示通りにしか動かないから、もっと考えて動いてよ」と説教の時間だった。「こっちもいつまでも面倒見られないから、もっとこのクラス対抗について意識持ってやってよ」ってことだ。何それ。話し「合って」ないじゃん。上からの説教じゃん。でも話し合うんだそうだ。いつもそう。なんか、話し合う。