なんでもかんでも「話し合い」

そうやって日々を暮らして、僕たちの社会は話し合うという言葉を分節化しないままだから、人と人が言葉を通じてやりとりすることの意味や目的が、いつも曖昧あいまいなままだ。気持ちを聞くのも、説教受けるのも、受験の進路を決める三者面談で嫌なこと言われるのも、みんな話し合いだ。

そのくせ、学園祭ではB組は何をするのかについては話し合って決めることが要求されるから、話し合いの仕方もみんなバラバラで、結論の出し方も、揉めた時の対応も、ぜんぶその場になってあたふたする。

そんなやり方、教わったことはないし、そもそも担任の先生の職員室での会議なんかをドアの隙間から盗み見してみると、ずっと下向いて、スマホいじって副校長の話を聞いてるふりしているように見える。なんか辛そうだ。それはオレ・ワタシらとも同じだ。どっちかがガーって言って、大体それで終わりだ。

だからいきなり「国会論戦始まる」なんていう新聞やスマホのまとめニュースの見出しを目にしても、反応する気にもならない。「論戦? 話し合い? 聞き出し? 説教? 愚痴? ディスり?……」、そのうち忘れる。国会で議論(?)だってもう選挙で議席の数は決まってるし、今さら国会で話し合ったって、結局、あのおじいさんの声で「賛成の諸君はご起立願います!」って言われて、テレビのニュースでちょっとだけそのシーンが出てきて、「え? 話し合ったの?」という感じだ。

「正しい結論」が目的なのか

でも、やっぱり学園祭で何をやるかを話し合ったとき、「ああ、早く帰りたいなぁ」って思ったけど、それでもいちおう話し合いになった。こんなバラバラなクラスの意見なんかまとまるわけないじゃんと半分諦めてたし、足して2で割って、余りはチョボチョボみたいなやり方だったけど、いちおうやる前よりも、いくらか発見もあったから、完全に無意味だとは思わなかった。だから、もっとちゃんと話し合えば、ちゃんとした結論も出るような気もしている。そんな予感はある。基本は面倒くさいけど。

やっぱちゃんと話し合わないと。「正しい結論」に近づくことが目的でしょ?

しかし、意地悪かもしれないが、僕は尋ねたくなる。学問の世界で生きていこうと思ってから今まで、もう数え切れないくらいの数の議論の場を経験したけれども、すればするほどまた疑念はつのる。話し合えば話し合うほど、正しい結論や合意が出てくるのだろうか? 僕たちは、正しさを手に入れるための秘訣ひけつを「もっと話し合いをちゃんとする」ということだと、曖昧に決めつけていないだろうか?

空っぽの日本の教室で輝く太陽
写真=iStock.com/xavierarnau
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