どうしても現実から逃げてしまう「回避性」の人たちはどう生きてきたか。精神科医の岡田尊司さんは「作家や詩人など、誰もが知る成功者の中に回避性の傾向をもった人が少なくない」という――。

※本稿は、岡田尊司『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

期待されると逃げてしまう哲学者

大衆運動』や『波止場日記』などで知られる社会哲学者のエリック・ホッファーは、生きるのが面倒くさいという状態に中年期まで悩まされた人だった。

自伝によれば、彼は心因性と思われる失明で、七歳から十五歳まで目が見えなかったので、ほとんど学校にも通ったことがなく、アルバイトや力仕事を転々としながら、読書と独学で知識を身に付けた。その才能や人となりに惹かれて、エリックを評価し、表舞台に引き上げようとする人は何人もいたが、そうした期待がかけられるたびに、彼は文字通り姿をくらましてしまうのだった。

あるときは、若く美しいUCLAの大学院生の女性が、エリックの物理や数学の才能に気づき、彼を大学の聴講生にしようとした。だが、彼は期待を裏切るのが怖くて、その女性のことを愛していたにもかかわらず、一言も言わずに逃げ出してしまう。

あるときは、レストランの給仕をしていたエリックの秘められた才能に、生物学の教授が気づき、ドイツ語の翻訳を頼んだりするようになった。教授は、エリックを助手に採用し、正式な研究者にしようとしたが、彼はその期待を重荷に感じて、またもや逃げ出してしまった。

若き日は挫折を重ねた大作家

あすなろ物語』や『氷壁』『敦煌』などの作品で知られる作家の井上靖は、『幼き日のこと・青春放浪』などによれば学校に行かなかった口だ。

ノーベル文学賞の発表を待つ井上靖氏(右)と夫人のふみさん(1988年10月13日、東京・世田谷区の自宅)
写真=時事通信フォト
ノーベル文学賞の発表を待つ井上靖氏(右)と夫人のふみさん(1988年10月13日、東京・世田谷区の自宅)

井上の学校嫌いは、中学時代にいじめられた経験や教師と対立した不快な思い出と結びついていた面もあっただろう。

それでも井上は、中学の途中までは、それなりに優秀な生徒だった。代々医者の家の出身だったため、彼もまた医者になることを期待されていたが、次第に理数系の能力がないことを思い知るにつれて、彼の中に挫折感が生まれたようだ。井上にとって気の毒だったのは、理数系が苦手であるにもかかわらず、親の期待に背けず、高校は理科系に進んでしまったことである。そのため、いまさら彼の得意とする文科系の学部に進むことも難しくなってしまったのだ。

「私は何もかも面倒臭くなっていた」

成績もふるわず、次第に学業も投げやりになっていく。ことにその傾向が顕著になったのは、大学に入ってからである。

九州大学の法文学部に籍を置いたものの、東京で暮らし、ほとんど大学に行ったこともないというありさまだった。二年後、京大の哲学科が定員割れしているというので、そちらに移り、京都に住み始めたが、「東京時代のなまけぐせがついていたので、二、三回大学の門をくぐっただけで、あとは食堂へ行く以外、ほとんど大学へは寄りつかなかった」(『青春放浪』)という。

井上は、卒論を書くのを一年延ばしにして、とうとう二十代も終わりの年齢になっていた。「私は何もかも面倒臭くなっていたので、卒業は取りやめるつもりでいた」(同書)が、妻が電報で卒論の締め切り日を知らせてきて、今年は是非とも卒業してほしいと泣きつかれて、卒論を書き上げたのだった。