合格した県庁を辞退

高3で就職を考える時期となり、友人が「県庁を受ける」というので一緒に受けに行った。無事合格したのだが、なぜか、それがちっともうれしくない。県庁で働いても自分はつまらなそうだと思った柴崎さんは、入庁手続きをしに行くのをやめてしまった。

その直後に、もうひとりの友人が「東京の専門学校に行く」と言うのを聞くと、突如、居ても立ってもいられない気分に襲われてしまった。そのときの東京といえば、遠い大都会で未知の世界。その友だちが光り輝いて見えたのだ。

しかし、農家の長男は跡取り息子として家を継ぐのが当たり前の時代。しかも、両親は底抜けに優しかったから「東京に行きたい」などとはおくびにも出せなかった。柴崎さんは激しく葛藤した。

5月になって父親と田植えをしていた時、溜まりに溜まった気持ちが突きあがってきた。

「……俺、東京へ行きたいんだけど」

すると、かがみ込んで苗を植えていた父親が、パッとこちらに顔を向けた。

「東京か? そりゃあ、行ったほうがいい」

絞りだすように言った息子の言葉を、父親はそのまま温かく受け入れた。「今でもそのときの情景が目に浮かぶんです」と柴崎さんは当時の心境を振り返る。

3畳一間のアパートでデッサンに明け暮れて…

3畳一間のアパートで東京での生活をスタートさせた柴崎さんは、杉並区の高円寺にあった阿佐ヶ谷美術専門学校に遅れて入学した。

「実家の天井には太いはりがあって囲炉裏の煤で真っ黒でしたが、目白のアパートで目を覚ましたら、柱が細くて白いんです。ああ、違う人生が始まるんだなとしみじみ思ったのを覚えています」

新宿の世界堂で大きな石膏像を買うと、そのままかついで山手線に乗り込み目白のアパートまで運び込んだ。

「田舎者でしたから、恥ずかしいという気持ちはまったくなかったですね」

三畳間に安置してみると、デッサンをするには距離が近すぎる。仕方なく、柴崎さんの方が廊下に出て距離を取るようにした。

阿佐美には藝大受験のために何浪もしている異様にデッサンの上手い人が何人もおり、柴崎さんは自分が世間知らずの井の中の蛙だったことを思い知ることになった。彼らの背後に陣取って、デッサンの技術を盗む日々を送った。

そんな中、柴崎さんはなんともいえない閉塞へいそく感を感じるようになっていた。憧れの東京はとても人が多かった。外へ出れば、どこもかしこも人ごみでうんざりする思いがした。「人の後にくっつくのがいや、徒党を組むのもいや。東京に出てきて、自分にそんな性質があることに初めて気がつきました。あの頃は、ただひとりでずっと絵を描いていましたね」