「底の底の人たちにまで、わたしの芸を理解してもらいたい」

「世間ではあの人たちのことをパンパンガールなんて悪くいいますけど、わたしにはどうしてもそんな言葉では呼べませんね。あの生一本な純情なところを見ると、あの人たちは決して悪い人たちじゃないと思いますよ」(『サンデーニュース』17号、1948年)

と語っていて、彼女たちに共感の心情を寄せているのがわかる。自分もまた生一本で純情だったからだろう。

「靴磨きの子ども達は可愛いですよ、わたしがコヤがはねて帰るでしょ、するとあの地下鉄の階段あたりのところで待機してるんですね、知らん顔して通るわけにもいきませんよ、私も思わず笑ってやったりして」(同)

有楽町の地下鉄の階段で、子ども好きの笠置が舞台を終えての帰路、靴磨きの子どもたちに笑顔を見せる表情が目に浮かぶ。

「ラク町(有楽町)でも靴磨きでもなんでもいい、そういう民衆の底の底の人たちにまで、わたしはわたしの芸を理解してもらい、そして一緒に喜んでもらいたい、これがわたしの生き甲斐です」(同)

1950年アメリカ公演に行く前には街娼たちが席を買い占めた

50年6月、渡米する笠置の歓送特別公演が日劇で行われたとき、夜の女たちの姐御“ラク町のお米”は仲間たちに大号令をかけ、日劇の1階の半分、約800席を買い占め、「ラクチョウ夜咲く花一同より」と書かれた、ひときわ大きく高価な花束をステージの笠置に贈った。笠置は感激し、彼女たち一人ひとりに「おおきに、おおきに」と応え、握手して回った。

当時の新聞は、「姉ちゃん元気で 笠置シズ子を送る夜の女達」との見出しでこう伝えている。

「ブギのコンビ服部良一と笠置シズ子は来る16日ハワイ経由で渡米するが、その送別特別リサイタルが12日夜7時から日劇で盛大に開かれた。しばらく笠置の歌ともお別れというのでこの日同劇場に押し寄せたファン聴衆は3千数百名、入場の際の整理の不手際から壁ガラスを破るというさわぎもあったが、笠置を姉と慕い美しい友情で結ばれている有楽町をはじめ上野、新宿、池袋等のナイト・エンジェル約300名は早くから予約していたかぶりつきに要領よく陣取って始終黄色い声援を送り心を込めた花束を贈呈、また廿の扉の宮田重雄氏、漫画家の横山隆一氏らも特別にステージに立って両氏に花束を贈った」(『毎日新聞』1950年6月13日)
「笠置シヅ子の世界 〜東京ブギウギ〜」笠置シヅ子「アロハ・ブギ(2023 Remastered Ver.)」℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE