生きていたら私より年上かもしれない

そのように概算しますと、この標本は4、5カ月になります。これはじつは女の子なんですけど、よく見ると、産毛まで残っていて、非常にきれいな標本です。

この子を見ると私は何を思うか。まずこの人は私より年上かな年下かな、と思います。というのはこれは大変古い標本で、大学にありました標本をこのような形に私が直したものなんです。

この人が生きていると、ひょっとすると私と同い年かもしれないし、年上かもしれないし、年下かもしれない。この人にはこの人の親があり、一家眷属けんぞくといいますか、そういうものがあって、さまざまな事情があってここにこうやってきている。

この人の親戚、縁者と私がどこかで関わりあっているのかもしれないけれど、それは私にはわからない。非常に不思議な感じがします。「袖振り合うも多生の縁」という、本当にそういう気がするわけですね。

人間の死体には3種類ある

皆さん解剖というといろんなことを想像されるかもしれません。でも実際は、はなはだ散文的なものです。私の若いころには廊下にプラスチックのバケツなんか置いてあって、うっかり蓋を取ると中に人間の頭が入ってたりしました。想像だけだとホラーの世界になっちゃうわけですが、慣れてまいりますと別に怖くないんです。

現代では死んだヒトはモノだというふうに考えがちだと思います。

死体とはモノであると。私どもが扱っているのは亡くなったヒトの身体です。ですから、身体であるからモノだ、というふうに一般にはお考えになるわけです。しかしそうはいかない。死体が3種類あるということをほとんどの方はお考えにならない。

テーブルに並べられた手術器具を手に取る医師
写真=iStock.com/Six_Characters
※写真はイメージです

死体というのは実は人称の区別があります。これは文法で言う一人称、二人称、三人称の区別です。

一人称の死体とは何かといいますと、自分の死体です。これは経験に絶対ないものです。落語にあります。浅草の観音様で「お前が死んでるぞ」と言われて粗忽そこつ者が大急ぎで見に行く。確かに俺が死んでいるということを確認する。そこまではいいんですが、あそこに死んでるのが俺だとすると、この俺はだれだというのが落ちになっています。それでよくおわかりのように、人間は自分の死体を経験することができない。