子供の頃の記憶だけが鮮明に残っている

どうして昔の家や亡くなった親にこだわってしまうのかという理由は、昔の方が鮮やかだからということに加えて、「安全基地」という考え方からも説明されています。人間にはだれでも、失敗をして自分が脅かされているときは、安心できる存在を求める心の働きがあります。健康な人でも、不安なときは恋人や家族にそばにいてほしいと思うでしょう。

それと同様に、アルツハイマー型認知症の人は、日々の生活の中で失敗することが増え、(現在の)家族からその失敗に対してびっくりしたような反応をされると、不安が募ってきます。そんなときは、安心できる存在を求めて、「実家」や「親」という単語が出てくることになります。

長年一緒に暮らしてきて、現在もそばにいる家族のことはもちろん忘れたわけではありません。しかし、毎日一緒にいる家族は、ご本人のみせる症状に慣れるのに時間がかかって、どうしても初めの頃は驚いた顔を向けてしまったり、戸惑ったりしてしまうものですから、安心を与える存在になれないことがあるのです。

自分を完全にわかってくれる人を心の中で必死に求めたときに、子どものとき、自分を守ってくれていた、絶対的な存在である「親」が思い出されてきます。「親」以外にも、過去の、仕事が一番うまくいっていたときの記憶や、子どもを守って家事の一切を切り盛りしていたときの記憶など、自分に一番自信があったときの記憶を突然思い出して語ることがあります。

日本の1歳の女の子の古い写真
写真=iStock.com/SetsukoN
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今はたくさんのことを人前で失敗してしまって、脅かされているからこそ、そのような鮮明な記憶を手がかりに、自分を保とうとするのです。

「家」が指し示しているのは「心が安心できる場所」

そして次第に、「家」という言葉が実家でもなくなり、とにかく「安心できる場所」という意味で使われることがあります。

実家を求めているのだろうと思って、そこへ一緒に行ってみても、「ここではない」というような反応で、あまりピンときていない。それは、もうそこには昔のような姿で親がいるわけでも、家が残っているわけでもないからで、そこに行っても安心がないからです。アルツハイマー型認知症の人だけでなく、時間が経てばどんな人も、どんな場所も変わるものです。

「家」が指し示しているのは、具体的な昔の家ではなく、「心が安心できる場所」なのです。

市司さんは、校長先生まで務めた教育者だったとのこと。積極的で人に頼られていた人だからこそ、デイサービスで人に助けてもらうことに抵抗があるのかもしれません。しかし、だからといって家でじっとしていると、かえって自分の中で「何もできない」という気持ちや、焦燥感が募り、何か生き甲斐のようなものを求めて外に出ようとするのかもしれません。

「家に帰る」というのは、「自分がいるべき場所はここじゃない」という感覚が生じてしまっているということで、本当は「何かやりたい」という気持ちの表れであることもあります。