一方、自動車以外の標的は事情が異なる。たとえば、農畜産業。食糧メジャーとして知られるADMや前出のカーギル社などが支配する穀物の世界市場は、自動車と違って今や米国の独壇場だ。「コメでも牛肉でも、今が日本市場の門戸をこじ開ける好機」と見ているに違いない。日本的な知恵で品種改良を成し遂げた農業は、種子ビジネスの標的でもある。

チェルノブイリ原発事故で旧ソ連が広大な穀倉地帯を失ったのと同様、福島原発事故は日本の穀倉地帯の多くを葬った。

東京で疎開中の福島県民はこう言う。

「福島で壊滅寸前の弱り切った農業が、関税撤廃を目指すTPPなんか突きつけられれば、今の従事者だけでなく後継者も将来を見限って意気消沈します。結局は土地を手放さざるをえなくなる。政府が本当に農業を守りたいのであれば、こんな瀕死の真っ只中で『TPPが農業を救う』なんて言えるわけありません」

あるべき「強い」農業とは、米国流「価格競争に強い」農業なのか。(AFLO=写真)

前述のように、まともな国であれば、必要に応じて自国民を守るための保護政策を講じ、関税を設けるのも当然だ。それが自由貿易を阻害するというのであれば、自由貿易は国民の不幸を孕んだものだということになる。いうまでもなく、巨大産業化し生産効率も高いバイオテクノロジーが食品市場で全面解禁されれば、つつましく丁寧に生産活動を営む農民が市場の価格競争で淘汰されることは明らかだからだ。

農業を語るときのTPP推進者が必ずといってよいほど強弁する「日本の農業は弱い。強い農業にしなければ!」の「弱さ」と「強さ」の基準は、結局、市場での価格競争力である。そこには品質や安全性に対する評価が欠落している。文明の進化で人類が求める農業=食には、果たして彼らが力説する意味での「強さ」は必要なのか?

※すべて雑誌掲載当時

(AFLO=写真)