世界中の少数民族を追いかけてきたフォトグラファーのヨシダナギさん。だが今年5月に発表した写真集のモチーフは「ドラァグ・クイーン」だった。一般的に女装する男性をさす言葉だが、なぜ彼女たちを選んだのか。ヨシダナギさんは「言葉にできない美しさと強烈な存在感は、民族を見た時に感じたのとある種同質だった」という――。

※本稿は、ヨシダナギ『DRAG QUEEN No Light, No Queen』(ライツ社)の「あとがき」を再編集したものです。

ドラァグ・クイーン
提供=ライツ社

そもそも私が少数民族を追いかけてきた理由

世界中の少数民族ばかりを撮影し続けてきた私が、なぜ今回ドラァグ・クイーンというモデルを選んだのか疑問に思う人がいることだろう。

自分と違う人ほど美しく、カッコイイ。そして面白い。

これは幼少期から今も変わらず私の中にある思いであり、少数民族を追いかけ続けてきた理由であるとともに、今回ドラァグ・クイーンをモデルに選んだ動機でもある。

世の中では、造形が整っている人=美しいとされることが多い。しかし、少数民族を撮影しているうちにその定義とは異なる、“真の美しさ”というものを見つけた気がするのだ。人を惹きつける美しさとは、その人間の生き様とドラマを映した“立ち姿”にこそ表れるものだと。

“堂々と美しく立つ”ということは、簡単なようでとても難しい。人間の持つ生き様が瞬時に露出するからこそ、立ち姿は偽ることができない。この誤魔化しのきかない立ち姿に美しさを持つがゆえ、私は少数民族に強く惹かれ、彼らばかりを追いかけてきたのではないかと思う。

ドラァグ・クイーン
提供=ライツ社

大人になりきれない自分に嫌気がさしていた

写真家という肩書きを偶然手に入れてから今年で5年目を迎えたのだが、数年前から「そろそろ少数民族以外の作品を見てみたい」と言われることが増えた。

そして、そのような撮影依頼が舞い込んでくるたびに実は気が滅入っていた。この職業を続けていくうえで、「新しい作品が見たい」と言われるのは幸せなことだと頭では理解していたのだが、私はただ少数民族が好きなだけであって、決してカメラや撮影自体が好きなわけではない。

だから、どうしても少数民族以外の撮影を「仕事」として割り切って受けることができず、大人になりきれない自分にも嫌気がさしていた。

そもそも、私は人があまり好きではないのだ。好きではないというよりは「人に興味がもてない」という方が適切かもしれない。(人に限らず、世の中のことにもあまり関心が持てないのだが……。)

少し前までは、それも己のパーソナリティの1つくらいにしか思っておらず、特に気にも留めていなかった。しかし、「視野の狭い自分のせいで仕事の幅を広げられずにいる」という現実が、サポートしてくれている人たちに迷惑をかけ、今まで支えてくれていた人たちの期待にも応えられていないのではないかと思うようになっていた。

そして、その思いは次第に罪悪感へと変わりはじめていた。

ドラァグ・クイーン
提供=ライツ社