広島の総合スーパー「ゆめタウン」の創業者・山西義政氏が4月7日、老衰のため97歳で鬼籍に入った。一代で西日本最大の流通チェーンを築き上げた山西氏は、いかにして成功への道を突き進んだのか。山西氏の痛快な生涯を振り返ろう──。

※本稿は、『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

『ゆめタウンの男』
画像=『ゆめタウンの男』

ヤミ市は『仁義なき戦い』の世界だった

ヤミ市は熱気や活力に溢れていましたが、どこか乱暴でダーティーな雰囲気もありました。映画『仁義なき戦い』の1作目で広島駅前のヤミ市が描かれていましたが、まさにああいった世界です。進駐軍の兵隊ややくざ者たちがわがもの顔でのし歩いていました。

そうした中で、私たちのような堅気の商売人も、彼らと対峙していかなければならない。当然、度胸もつきますし、肝も据わってきます。目の前のお客さんと接する一方で、やくざ者たちと渡り合うことも多かったのです。あるときやくざ者がやってきて、ピストルを取り出し、これをかたに金を貸せと凄まれたこともありました。

「あんたたちに金なんか貸さんよ」

と追い返しましたが。毎日、はらはらどきどきしていましたが、一番楽しい時代でもありました。

しかし、駅前のヤミ市での露店は1年も経たずに、畳むことになりました。戸板の店ではなく、小さくても一軒の店を出すことにしたのです。

広島駅前の猿猴橋町に8坪ほどの店を借りました。1946(昭和21)年のことです。当初、看板は掲げませんでしたが、その翌年に2階建ての店舗に移ってからは「山西商店」の看板を出しました。

従業員を3人雇い入れ、初めは今までの延長で何でも扱いましたが、次第に衣料品専門へと切り替えていきました。メリヤスの肌着、マフラー、それに靴下は必需品です。置けばすぐに売れてしまいます。