「ハンセン病患者の隔離はアウシュビッツの思想と同じ」

同じことは、長島愛生園についても言える。

日本で初めて設立されたハンセン病の隔離施設は、1909(明治42)年に東京郊外の東村山村(現・東村山市)に開設された第一区府県立全生病院(現・国立療養所多磨全生園)である。この病院に医長として赴任したのが光田健輔(1876~1964)であった。

全生病院では脱走者があとを絶たなかったことから、光田は「島」に患者をまるごと隔離することを考えた。晩年の回想録である『愛生園日記 ライとたたかった六十年の記録』(毎日新聞社、1958年)のなかでは、「できれば大きな一つの島に、日本中のライを集めるというようなことを考えていた」と述べている。

光田がまず目をつけたのは、沖縄県の西表島であった。だが西表島はマラリアの流行地である上に本土から遠かったため、第二候補とされた長島に白羽の矢が立てられた。長島愛生園は公立の全生病院とは異なり、初めての国立療養所として1930年11月に開設された。

31年3月には光田が初代園長として着任して最初の患者を受け入れ、同年8月には早くも定員の400人を突破、43年には患者数が2000人を超えた。光田は園長を退官する57年3月まで、絶対的な権力を振るいつつ長島愛生園に君臨し続けたのである。

光田が進めた隔離政策を、ノンフィクション作家の高山文彦はこう意味付けている。

その考えの根本にあったのは、日本中の患者を離島に集めて一歩も外へ出さず、結婚も出産も許さずに一生を島で終わらせれば、最後のひとりの死滅とともにハンセン病も絶滅するというもので、これはアウシュビッツの思想とまったく同じものであった。その根底には劣等民族や精神病者を排除して近代帝国を完成するという優生思想が明瞭に存在する。(『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』、小学館、2017年)

貞明皇后の言葉が隔離政策を後押しした

この隔離政策にお墨付きを与えたのが、大正天皇の后、節子(貞明皇后)であった。

節子は、ハンセン病患者の垢を清め、全身の膿を自ら吸ったという伝説がある聖武天皇の后、光明皇后に対する強い思い入れをもっていた。昭和になり、皇太后となった節子は、「救癩」のため多大なる「御手許金」を下賜したほか、「癩患者を慰めて」と題する和歌を詠んでいる。

つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて

行くことが難しい自分自身に代わって、患者の友となって慰めてほしい――皇太后からこう呼びかけられた光田は、感激を新たにした。天皇と並ぶ「浄」のシンボルとしての皇太后が、「穢」としての患者に慈愛を注ぐことはあっても、直接「島」を訪れることはない。だからこそ光田らがその代わりにならなければならないというのだ。

35年1月18日、光田は東京の大宮御所で皇太后に面会し、「一万人収容を目標としなければ、ライ予防の目的は達せられないと思います」と述べたのに対して、皇太后は「からだをたいせつにしてこの道につくすよう」と激励している(前掲『愛生園日記』)。