西田は東芝の中でパソコン部門の出身で、佐々木は原子力部門の出身である。ただ原子力の中核技術とされるのは原子炉本体やタービンだが、佐々木のもともとの担当は原子力発電所の構造設計。つまり「本人は専門家と称しているが、実はそうじゃない。その佐々木の能力不足でWHは経営がうまくいかなかった」と言いたかったようだ。

実際は、WH買収当時の佐々木は担当役員にすぎなかった。最終判断を下したのは社長の西田であり、三菱重工を抑えての買収成就を高く評価して、佐々木を自分の後任社長に据えたのも西田だ。それなのになぜ、延々30分も罵倒し続けるのか。

話は西田の2代前、96年に東芝社長に就任した西室泰三(故人)の時代に遡る。東芝社内での西室の呼び名は「嫉妬の人」。優秀な部下に仕事を任せ、功績を上げさせるが、その手柄を自分のものにした揚げ句、嫉妬のあまりその部下を次の人事で飛ばすというのだ。

00年に会長に就任すると、自分と財界人2人からなる「指名委員会」を設置し、人事権を社長から取り上げた。当時、社長だった岡村正は「お飾り」に。恐るべき権力への執着である。

その西室が何よりも執着していたのが、経済団体連合会(当時、02年より日本経済団体連合会)会長の地位であった。東芝は世上「2人の経団連会長を輩出した名門」とされている。が、石坂泰三は第一生命保険(現・第一生命HD)から、土光敏夫は石川島播磨重工業からと、ともに“外様”経営者。東芝プロパーの経営者を経団連会長にすることは、東芝にとっての悲願なのだ。

だが経団連会長の座は02年以降、トヨタ自動車会長の奥田碩、キヤノン会長の御手洗冨士夫と続き、西室は経団連会長の座を諦めざるをえなかった。

記者会見の場で会長、副会長がいがみ合う

西室が岡村の次の社長に選んだのが、パソコン事業出身の西田である。

当時、経済産業省が「原発の海外輸出」の旗を振り始めていた。西田はその国策に迎合し、原子力部門出身の佐々木を起用してWHの買収を試みた。佐々木は奮闘し、買収を成功させる。西田はその功績を買って09年に社長を佐々木に譲り、自らは会長に就任。英語が巧みで弁が立つ西田は当時、次の経団連会長の最有力候補とされていた。

だが障害が1つあった。このとき、日本商工会議所会頭が前任社長の岡村で、「経済3団体のトップのうち2人が同じ企業出身というのはいかがなものか」という声が上がった。