「コンプライアンス」や「ガバナンス」といったカタカナ英語を多用する人がいる。だが、そういう人は英語が堪能かといえば、そうでもない。明治大学の小笠原泰教授は「カタカナ英語では、言葉本来の意味が分からなくなる。たとえばナイーブ(naive)という言葉は日本語と英語で意味が違う」と指摘する――。

※本稿は、小笠原泰『わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ 時代に先駆け多様なキャリアから学んだ「体験的サバイバル戦略」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/scyther5)

英語学習は「好き嫌い」で判断すべきではない

「デジタル・テクノロジー革新と融合したグローバル化」の進行によって、世界中の人々の移動や、ネット上でのコミュニケーションが活発化するなかで、異なる母語を持つ人々が、相互理解や合意形成を行うための共通言語の存在は、必要不可欠です。このような共通言語をリングア・フランカ(Lingua franca)と呼びます。これが現在の英語です。グローバルな社会において、英語が最も取引コストを低下させる言語であるということです。

現代のリングア・フランカである英語を使えるか使えないかは、将来の自分の選択肢を広げられるかどうかの実利の問題であり、好き嫌いで判断すべき問題ではありません。筆者は、「多様性を前提とするグローバル化する社会」で生き抜くには、母語も英語も両方大切であり、二者択一的に捉えるべきではないと思います。

より直截的な言い方をすれば、国境を自由に越えて、より多くの個人と個人がつながっていくグローバル社会において、急速に権威と統制力を失っていく国家に依存することなく、自らを助け、より多くの仲間に助けてもらい(信頼と互恵と互酬)、より良い人生を生きるためのネットワークをつくるために必須なものが英語であるということです。

進歩の著しい自動翻訳に期待する人もいますが、英語等の欧州言語と違い、単語の分節が不明確な日本語は、コンピュータが構文解析と意味解析とを分けて行うことが難しいこともあり、ビジネスなどで求められるレベルのコミュニケーションを自動翻訳で実現するには、まだまだ時間がかかるでしょう。したがって、技術革新によって、そう遠くない将来には自動翻訳が可能になると考えることはリスクが高いと思います。

いちいち日本語に訳しているようでは使えない

英語はツールだという発言もよく耳にします。しかし、英語をツールと言っている人も、日本語をたかが言葉であり、ツールだと言ってのける人は少ないのではないかと思います。これは、いかにも明治時代の和魂洋才的な思考と言えますが、この翻訳的な発想では、英語は使えるようになりません。英語の文章や会話を理解するときに日本語に訳しているようでは、グローバル社会の現場では使いものになりません。

これは理解のスピードの問題ではなく、そもそも日本語と英語とでは、それぞれにない概念が存在し、言葉の抽象度も異なるので、翻訳の発想で日本語を介在させることは、むしろ有害なのです。

実は外国語の習得とは、単なるコミュニケーションツールの獲得ではなく、もう一つの思考形態の獲得に他ならないのです。言語は思考形態を規定するからです。多くの場合、主語の「私」を使わない日本語と、主語である「I」を必ず使う英語、「~ではないと思う」という直接の否定形を使わない日本語と「do not think~」という直接の否定形を使う英語という、このような日常的な違いから、思考の組み立ては異なっているのです。