現役時代の職業によって、定年後の経済力、生き方はどう変わるのだろうか。職業別に「リアルな老後」を紹介しよう。1人目は「丸紅→NPO設立」の谷川洋さんの場合――。(全5回)

※本稿は、「プレジデント」(2018年11月12日号)の掲載記事を再編集したものです。

【丸紅→NPO設立】

総合商社退職後、夢の実現を志した谷川洋さん。アジアの貧困地帯を駆け巡り280超の学校を建設

50歳で出世と訣別。世のため人のため、何ができるか――

谷川洋さんのサラリーマン人生の転機は50歳のとき。総合商社の丸紅に入社後、国際業務部門、鉄鋼部門、営業推進室長を経て、経営企画全般を担う業務部長に上りつめた。その直後に妻が乳ガンを発症し、手術後に、出世コースである海外支配人の内示を受けた。

70歳を超えても精力的にアジアへ行く。

だが、谷川さんは赴任先を聞かずに妻の看病を理由に断った。「妻の状態がこれからどうなるかわからないので、どこでもいいから日本にいさせてほしいと断りました。末っ子の大学生を含めて3人の子供がいましたし、今まで子供を育ててくれた妻に付き添い、家族のために尽くすべきだと考えたのです。その時点で出世街道はおしまいにすると自分で腹を決めました」。

それから闘病生活4年半を経て妻が亡くなり、さらに妻の母の介護を2年やり、看取ったときは57歳。当時、子会社の専務をしていたが、早くから「中2階の人生は歩かない」と決めていた。中2階とは“現役”を退いても会社にしがみつくこと。谷川さんは「会社に頼めば次のポストを探してくれるかもしれない。でも中途半端に会社生活を延命したくなかった。子供たちは社会人として自立していましたし、私1人なら企業年金と公的年金で何とか暮らせますし、60歳からの第2の人生は別の生き方をしたかった」と語る。

漠然と考えていたのは、幼少期に経験した出身地の福井県の大地震で奇跡的に助かったとき、兄と誓い合った「いつか世のため、人のためになることをしたい」という夢の実現だった。何をやるかは決まっていなかったが、偶然、日本財団に勤務する会社の元部下から「海外の貧しい地域での学校建設のあり方を一緒に考えてくれる人はいないか」と相談を受けた。谷川さんは即座に「俺がやるよ」と手を挙げた。