※本稿は、借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
診断を最初に受けたのは大学生のとき
僕が発達障害の診断を最初に受けたのは、大学生のときでした。そのときは、「なるほど、これが自分の人生がうまくいかなかった理由か」と何となく思う一方、同時に「発達障害がある自分というのは、何らかの才能があるのかもしれないな」という甘い予断もありました。
僕の失敗続きの人生が「致命的」なものであることを、まだ受け入れられていなかったのかもしれません。当時は、「発達障害」について調べると「あの偉人もあの天才も発達障害だった」みたいな内容が随分目についたのを覚えています。しかし、僕の人生を振り返るとやはり発達障害というのは「厄介な障害」でしたし、それがもたらした困難は小さいものではありませんでした。
「文句なしの職場」に適応できず
僕の社会人としてのキャリアは、文句のつけようのないホワイト企業から始まりました。もちろん激務感がゼロだったわけではありませんが、一般的な水準から見れば給与は高く、休みは多かったと思います。福利厚生はこれ以上ない水準でそろっており、教育環境は極めて高いレベルで完備され、まさしく文句なしの職場でした。
大学4年生の終わり頃、あの浮かれた気分を僕はいまだに覚えています。ついに俺はここまで登りつめたぞ。田舎者の発達障害者だってやればできるんだ。未来は希望に満ちていました。七転び八起きの人生だったけどやってやったぜ。そんな気持ちだったと思います。
それから約2年後、僕は職場から敗走することになります。それは、僕の敗走人生の最も代表的なエピソードと言えると思います。
職場に入って一番先に思ったことは、「こいつらみんな能力高い!」ということでした。もちろん、能力の一番尖(とが)った部分で後れを取る気はない、くらいの自負は僕にもありましたが、総合的な能力のバランスという面で僕は同期の中で圧倒的に劣っていたと思います。端的に言えば、能力のムラがありすぎました。
ホワイト企業の最も厄介な面はこれです。学歴はあって当たり前。その中でさらに苛烈な選抜をくぐり抜けてきた彼らは、「何もかも普通以上にできて当たり前」なのです。
新卒にいきなり難度の高い仕事が回ってくることなどありません。「誰でもできる仕事を効率よくこなす」という点で競い合った場合、能力ムラが大きく集中力にも難のある僕は圧倒的な後れを取りました。