「唯一の被爆国」なのに核軍縮を拒む矛楯

――戦前と戦後の「国体」の歴史を相似形として描いていますね。

明治維新を起点として「国体」、つまり近代の天皇制は形成され、いったんは安定をみた(大正デモクラシー)ものの、昭和初期になると日本を破滅的な戦争という破局に導いていった。「戦後の国体」も、それと同じような三つの段階を踏んでいると考えます。今年明治維新150周年で、まもなく平成も終わりますが、2022年には戦前(維新~敗戦)と戦後(敗戦~現在)の長さが同じになります。

それぞれの歴史を見てみると、明治の国体が「天皇の国民」であったのと同じように、戦後日本は占領された状態、「アメリカの日本」として始まる。しかし、その条件を利用して復興を果たし、経済大国へと成長する。それは「アメリカなき日本」の時代であり、戦前では大正デモクラシーの「天皇なき国民」というつかの間現れた天皇制の支配が緩んだ時代と重なります。

白井聡『国体論』(集英社新書)

ところが、戦前はその後、天皇制支配のハードな時代になる。戦後もアメリカの支配を相対化できていたはずなのに、悲惨な見苦しい対米従属の国になった。それが現代です。

なぜそうなったのか。戦前のファシズム期には「国民の天皇」という観念が現れますが、同様に、「日本のアメリカ」という不条理な観念を無意識に持つようになってきているからだと考えられます。

そのことがいま一番鮮やかに表れているのが核兵器に対する日本政府のスタンスの取り方です。「日本は唯一の被爆国」と繰り返してきたのに、反核平和団体がノーベル平和賞を取ったら全然相手にしない。アメリカが核軍縮をしようとすると「お止めください」と言う。つまり、ここには「《日本のアメリカ》の核兵器は日本の核兵器だ」という観念がある。

――ふだん「国体」についてあまり考えたことのなかったという人にどう読んでもらいたいですか。

自由を求めて自立する生き方ということを考えてほしいのですが、その出発点として、アメリカ崇拝がどれだけわれわれの無意識に入り込み、卑屈さを生んでいるのかについて自覚が生まれないといけない。例えば大リーグの優勝決定戦。あれはワールドシリーズと言います。全米一決定戦なのに、世界一決定戦を自称している。そのことのおかしさを日本人は全然意識していない。本当なら世界一決定戦を太平洋の間でヤレというのがスジというもの。アメリカは応じないだろうけれど(笑)。でも、それでも言い続けるのが気概というものです。

――日本は日本としての自立を模索する必要があるということですね。

国家主権は常に相対的なものです。しかし、日本がアメリカに従属しているとしても、可能な限り少しでも自由でありたいと願うのが、生き物としての本能。その本能を取り戻せるかどうか、ということが問われています。

一昨年、ロシアのプーチン大統領が来日する前に、インタビューで痛烈なことを語っていました。「日本は日米同盟に縛られている。それはわかるが、独立国家でありたいという気持ちを少しでももっているのかね。どうやらもってないみたいだけど、そういう国とは真面目な話はできない。中国は独立国家たらんとしている。そういう国とは真面目に話す」と。その証拠に、動く、動くと言われていた北方領土の返還交渉は1ミリも動かない。それどころか、返すと言っていたはずの二つの島で、アメリカと提携して発電所を造ると言っている。