週刊新潮で女性記者にセクハラ発言を繰り返したと報じられた財務省の福田淳一事務次官が辞任した。この問題ではセクハラを受けていた女性記者が、勤務先のテレビ朝日の上司に相談したが「報道は難しい」と伝えられ、週刊新潮に連絡したという。ジャーナリストの牧野洋氏は「マスコミの取材体制にも大きな問題がある」と指摘する――。
4月18日、辞任を表明した福田淳一財務事務次官(写真=時事通信フォト)

国家権力とマスコミは主従関係にある?

国家権力を取材するマスコミは国家権力に仕える立場にあるのだろうか? 国家権力が「主」でマスコミが「従」という主従関係が成り立つのだろうか?

答えはもちろんノーである。主従関係が成り立っていたら、マスコミは「政府広報紙」と変わらなくなってしまう。マスコミは対等の立場で国家権力と対峙し、権力のチェック役を担わなければならない。

ところが、財務省の福田淳一事務次官をめぐるセクハラ問題を見ると、そこには主従関係があるように見える。マスコミはネタをもらうために財務省に気に入ってもらおうと何でもする。時にはセクハラ行為も我慢しなくてはいけない、というわけだ。

今回のセクハラ問題は、同一組織内で起きたわけではない。福田氏は財務省内の女性職員ではなく、テレビ朝日の女性記者に対してセクハラ行為を繰り返したとの疑惑を持たれている。

財務省内で男性上司が人事権を盾にして、部下の女性職員にセクハラをしたと仮定しよう。この場合、女性職員は解雇や左遷を恐れてセクハラ行為を我慢することもあるだろうし、内部告発者となって上司と対決することもあるだろう。ここには明らかに主従関係がある。

一方、テレ朝の女性記者は財務省の職員ではない。福田氏によって解雇されることはないし、左遷されることもない。にもかかわらずセクハラ行為を受けるような状況に置かれたのである。

問題の根っこにある「アクセスジャーナリズム」

理由は単純だ。ネタを取るためである。どのメディアであっても、財務省のトップに食い込み、ネタを取ってくる記者は重宝される。一緒にバーで飲んだり週末にゴルフを楽しんだりする関係を築ければ御の字だ。

問題の根っこにあるのがいわゆる「アクセスジャーナリズム」だ。アクセスジャーナリズムとは、記者が政府高官や企業経営者に気に入られ、特別に情報をリークしてもらう手法だ。「リーク依存型取材」と言い換えてもいいかもしれない。

権力側との「アクセス(接近)」を重視するあまり、ジャーナリズムに欠かせない批判精神を失ってしまう――これがアクセスジャーナリズムの本質である。日本では財務省の記者クラブ「財政研究会」を筆頭に権力側に配置された記者クラブがアクセスジャーナリズムの一大拠点として機能している。ここに主従関係が生まれる土壌がある。

問題は女性記者に対するセクハラ行為に限らない。男性記者に対するパワハラ行為も考えられる。権力側が「主」でマスコミが「従」になる結果、同一組織内で起きる上司・部下と同じような関係が「取材される側」と「取材する側」に生まれるわけだ。