エゴスクープの弊害は大きい。第1に、記者がブラック労働を強いられる。発表されたり、他社に抜かれたりしないようにするため、昼夜問わず血のにじむような取材合戦に放り込まれる。特オチ回避は至上命令なのだ。

第2に、アクセスジャーナリズムと紙一重だ。というか、アクセスジャーナリズムを受け入れなければエゴスクープはまずものにできない。こうなるとマスコミが権力側と癒着しかねず、記者のブラック労働よりも深刻な問題となる。

記者へのセクハラ・パワハラをなくす決定打

財務省側の視点で考えてみよう。日銀総裁人事のリーク先を考えるとき、財務省の良き理解者であり、常に財務省の意向に沿った報道を手掛けているメディアを選ぶだろう。一方、内部告発者を情報源にして財務省の不正を暴こうとしているようなメディアは出入り禁止にしたいはずだ。

財務省の良き理解者かどうかではなく、セクハラ行為を受け入れるかどうかでリーク先を決めるケースもあるようだ。今回のセクハラ問題をスクープした「週刊新潮」(4月26日号)が入手した音源によれば、福田氏が情報の見返りに女性記者にセクハラ行為を迫っているとも受け取れる会話が紹介されている。

アクセスジャーナリズムから脱却するには、マスコミ業界全体としてエゴスクープと決別し、本物のスクープを目指せばいい。エゴスクープを新聞協会賞から排除するのは第一歩だ。そうすれば自然にアクセスジャーナリズムへの依存度を下げることができる。

本物のスクープとは、「放っておいてもいずれ明らかになるニュース」ではなく「記者の努力がなければ永遠に埋もれしまうニュース」である。記者が独自にニュースを発掘する調査報道と同義と考えていい。直近では、朝日新聞が放った「森友文書改ざん」のスクープが代表例だ。

このような報道であれば、マスコミと権力側の間に主従関係は発生しない。マスコミはエゴスクープを追い求めないから、権力側にすり寄る必要はなくなる。権力側からのリークに頼る報道はしなくていいのだから、記者に対するセクハラやパワハラが発生する余地もなくなる。この機会に各社には報道のあり方を考え直してほしい。

牧野 洋(まきの・よう)
ジャーナリスト
1960年生まれ。慶応大学経済学部卒業、米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール修了。1983年、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員や編集委員を歴任し、2007年に独立。早稲田大学大学院ジャーナリズムスクール非常勤講師、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)理事。著書に『米ハフィントン・ポストの衝撃』『共謀者たち』(河野太郎との共著)『官報複合体』『不思議の国のM&A』『最強の投資家バフェット』など。
(写真=時事通信フォト)
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