学校の教科書は「時代」が変わると仕切り直しになってしまう。しかし現実の歴史は1本のタイムラインで今日までつながっている。江戸時代以降の400年を人口、経済、気温、身長の4つのデータから読み解く。第1回は「人口」について――。

※本稿は「プレジデント」(2018年2月12日号)の特集「仕事に役立つ『日本史』入門」の掲載記事を再編集したものです。

人口減は「パラダイムシフト」を起こしてきた

日本の人口は2008年、1億2808万人をピークに減少に転じました。国立社会保障・人口問題研究所は「このままいけば2053年には1億人を割り込み、2115年には5056万人になるだろう」と推計しています。

1970年代のベビーブーム直後に石油危機が起こり「地球資源限界説」が話題に。(写真提供=読売新聞/アフロ)

国の将来がしぼんでいくようで寂しい印象を受けますが、日本の人口動態を見ると過去にも「縄文後・晩期」「鎌倉時代」「江戸時代中期」と、3度の人口減を経験していたことがわかります。

いずれも直前には大きな人口増の波があり、それをもたらした要因が失われるか限界に近づくことで、人口減に転じました。そして、人口の低迷/減少期には必ず、次世代の扉を開く“パラダイムシフト”が起きているのです。

たとえば、縄文中期まで日本列島は気候の温暖化が続き、狩猟採集の暮らしを営む人々を養うに十分な食糧がありました。ところが、縄文後・晩期には寒冷化が進んだために食糧不足になったのです。人口は26万人から8万人(諸説あり)へと3分の1以下に減りましたが、「水稲耕作」が始まると食糧を計画的に確保できるようになり、弥生時代の人口増加へとつながりました。

そうして奈良時代に人口は450万人ほどまで増えますが、平安後期には耕地拡大が限界に達し、頭打ちになります。さらに疫病や旱害に襲われて、鎌倉時代には2度目の人口減に見舞われるのです。この危機を乗り越えた要因は、在地領主による治水や新田開発が生産力を拡大させたことでした。

江戸中期には新田開発が限界に近づいたために、意図的に出生抑制を行ったり、晩婚化が進んだことが、人口減の原因となりました。これを打破したのは社会システムの近代化、例えば薪などの自然エネルギーから石炭石油など鉱物エネルギーへの転換でした。