東京・上野動物園で生まれたパンダの子供「シャンシャン」が人気を集めている。パンダの子供は珍しいものではない。なぜこんなに人気なのか。宗教社会学者の岡本亮輔氏は「明治政府は江戸幕府の聖地を破壊して上野動物園を作った。『上野のパンダ』には日本の近代化の象徴としての意味合いがある」と読み解く――。

数では負けてもパンダは上野のシンボル

パンダの顔を見つめる西郷隆盛像(著者撮影)

東京・上野動物園で昨年6月に生まれたジャイアントパンダの子供「シャンシャン(香香)」が人気を集めている。2月1日には公開方法がこれまでの抽選式から先着順に変更され、その初日には6000人以上が訪れた。遠方から来てホテルに前泊した人や夜明け前から並ぶ人もいたという。アナウンサーの安住紳一郎さんやタレントの有吉弘行さんなど、パンダ好きを公言する有名人も多い。さらに、先日行われた沖縄県の名護市市長選挙では「パンダ誘致」が公約になり、パンダかインフラかという構図になった。とにかくパンダの人気はすさまじい。

関西の人に言わせれば、「本当のパンダの聖地は和歌山県にあるアドベンチャーワールド」ということになる。たしかに出産数や育成成功数は中国以外で最多を誇り、国内の半数以上のパンダはアドベンチャーワールドにいる。

しかし、数は少なくても、パンダは上野のシンボルだ。動物園に背を向ける西郷隆盛像の視線の先にすらパンダの絵があるくらいだ。いったい、どのようにしてパンダは上野のシンボルになったのだろうか。歴史を振り返って見ると、実は、上野のパンダは聖地破壊と関係していることがわかる。

明治政府が破壊した「聖地・上野」

地域外の人には通じないことがあるが、上野公園のことを地元では「上野の山」と呼ぶ。江戸時代、上野の山のほとんどは徳川将軍家の聖地・寛永寺であった。寛永寺を創建したのは天海(1536?~1643)である。天海は、江戸を宗教的に守護するべく、1625年、鬼門にあたる上野の山に寛永寺を築いたのだ。

寛永寺は比叡山を見立ててデザインされた。寺の名が元号であるのも延暦寺にならったものだし、根本中堂や釈迦堂も比叡山がモデルだ。琵琶湖に見立てた不忍池には、弁才天が祀られた。吉野からは桜が移植され、これが現在では桜の名所となっている。さらに清水観音堂・祇園堂・大仏なども造られ、京・奈良・近江の宗教文化が上野山内に集められたのである。